元サラリーマンの植物ウォッチング第5弾。写真はクリックすると大きくなります。
多摩ニュータウン植物記Part5
クリ・5~殻
“よこやまの道”横の畑で見られる「クリ(栗)」。既に収穫は終わり果実はほとんど見られないが、枝先に殻がポツンと残っていた。
さて今年のNHK大河ドラマ『いだてん』の主人公の一人は金栗四三氏だが、このブログでは8年前に彼について記載していた。改めて紹介すると、彼は日本におけるマラソンの父と称される人で、箱根駅伝の最優秀ランナーに授与される“金栗四三杯”は、彼の功績を讃えて2004年から始まっている。
金栗氏は1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックのマラソンで、40℃を超える猛暑と、当時の過酷な渡航条件の影響のためレース中に気を失い、翌日まで近くの民家で目を覚まさなかったという。記録では“レース中に失踪し行方不明扱い”となっていたが、その54年後(昭和42年)にストックホルムオリンピック委員会が、過去のレースを調査した結果、彼自身の口から“棄権する”意思表示が無かったため、彼をストックホルムに招待し記念式典でゴールさせることにした。この時のアナウンスが『日本のカナクリ、今、ゴールイン。記録は54年8ヶ月6日と5時間32分20秒3。これで第5回ストックホルム大会は全日程を終えました。』という素晴らしく洒落たものだった。その時75歳の彼は、インタビューに対し『長い道のりでした。この間に孫が5人できました。』と答えたという。この記録は世界一遅いマラソン記録とされている。
更にストックホルム大会100周年を記念して、2012年(平成24年)7月14日、当時を再現する記念マラソンが開催され、当時と同じ午後1時48分に号砲が鳴った。この記念大会に招待されたのが、金栗氏の曾孫の蔵土義明さん(当時25歳)で、彼は陸上競技の経験は無かったが、その年の2月に初のフルマラソンを完走したという。75歳の金栗氏が実際に走ったのは競技場での最後の直線だけだったが、蔵土さんは金栗氏と同じ822番のゼッケンを付けフルマラソンを走り切った。民家跡地では、金栗氏を介抱した銀行家の子孫らが当時のレシピでケーキを焼き、果実ジュースで疲れたランナー達を元気付けた。心温まる楽しいイベントであり、こんな大会なら私も走ってみたい。
さて今年のNHK大河ドラマ『いだてん』の主人公の一人は金栗四三氏だが、このブログでは8年前に彼について記載していた。改めて紹介すると、彼は日本におけるマラソンの父と称される人で、箱根駅伝の最優秀ランナーに授与される“金栗四三杯”は、彼の功績を讃えて2004年から始まっている。
金栗氏は1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックのマラソンで、40℃を超える猛暑と、当時の過酷な渡航条件の影響のためレース中に気を失い、翌日まで近くの民家で目を覚まさなかったという。記録では“レース中に失踪し行方不明扱い”となっていたが、その54年後(昭和42年)にストックホルムオリンピック委員会が、過去のレースを調査した結果、彼自身の口から“棄権する”意思表示が無かったため、彼をストックホルムに招待し記念式典でゴールさせることにした。この時のアナウンスが『日本のカナクリ、今、ゴールイン。記録は54年8ヶ月6日と5時間32分20秒3。これで第5回ストックホルム大会は全日程を終えました。』という素晴らしく洒落たものだった。その時75歳の彼は、インタビューに対し『長い道のりでした。この間に孫が5人できました。』と答えたという。この記録は世界一遅いマラソン記録とされている。
更にストックホルム大会100周年を記念して、2012年(平成24年)7月14日、当時を再現する記念マラソンが開催され、当時と同じ午後1時48分に号砲が鳴った。この記念大会に招待されたのが、金栗氏の曾孫の蔵土義明さん(当時25歳)で、彼は陸上競技の経験は無かったが、その年の2月に初のフルマラソンを完走したという。75歳の金栗氏が実際に走ったのは競技場での最後の直線だけだったが、蔵土さんは金栗氏と同じ822番のゼッケンを付けフルマラソンを走り切った。民家跡地では、金栗氏を介抱した銀行家の子孫らが当時のレシピでケーキを焼き、果実ジュースで疲れたランナー達を元気付けた。心温まる楽しいイベントであり、こんな大会なら私も走ってみたい。
コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )