旧浜益村の閉校(小学校) 赤字はレポート済
- 浜益村立浜益小学校〈初代〉(1963年群別小と統合し浜益中央小へ)
- 浜益村立群別小学校(1963年浜益小〈初代〉と統合し浜益中央小へ)
- 浜益村立幌小学校(1966年床丹小と統合し浜益北部小へ)
- 浜益村立床丹小学校(1966年幌小と統合し浜益北部小へ)
- 浜益村立浜東小学校(1972年黄金小へ統合)
- 浜益村立実田小学校(1977年黄金小へ統合)
- 浜益村立千代志別小学校(1979年浜益北部小へ統合)
- 浜益村立尻苗小学校(1983年黄金小へ統合)
- 浜益村立濃昼小学校(1992年黄金小へ統合)
- 浜益村立浜益北部小学校(1999年統合により石狩市立浜益小学校〈当時:浜益村立〉へ)
- 浜益村立浜益中央小学校(同上)
- 浜益村立黄金小学校(同上)
中学校
- 浜益村立黄金中学校(1951年石狩市立浜益中学校〈当時:浜益村立〉へ統合)
- 浜益村立浜東中学校(1951年浜益中浜東分校となり、1954年再独立、1966年浜益中へ統合)
- 浜益村立実田中学校(1951年浜益中実田分校となり、1954年再独立、1968年浜益中へ統合)
- 浜益村立千代志別中学校(1966年幌中へ統合)
- 浜益村立尻苗中学校(1951年浜益中尻苗分校となり、1954年再独立、1983年浜益中へ統合)
- 浜益村立濃昼中学校(1951年浜益中濃昼分校となり、1954年再独立、1992年廃校)
- 浜益村立幌中学校(1951年浜益中幌分校となり、1954年再独立、1999年浜益中へ統合)
※wikipediaより
増毛町から日本海オロロンラインを南下しながら
周辺の廃校をカバーして行きました。
「旧浜益村立千代志別小学校」
開校:1903(明治36)年
閉校:1978(昭和53)年
校舎:()年竣工
石狩市浜益区千代志別
千代志別は4月に大きな古民家を撮影してきた
残念ながらその建物はすでに跡形もなく、建物があったこと自体がすでにわからなかった。
千代志別小学校はそんな千代志別の一番山側の奥にあった
集落自体は日本海に面しているとはいえ両側がトンネルであり100メートルも面してはいないだろう。
川沿いに民家の間を縫って上流へ行くと行き止まりで左に橋を渡ると
正面に学校の敷地があった。
校門のプレートは無し
学校関係の建物のようだ 左手に記念碑があった
ただし草ボウボウだ
千代志別小学校閉校記念碑 とある
もしかして教員宿舎かも
校舎・校庭から海が見えたようだ。
2021年11月撮影
「旧浜益村立床丹小学校」
開校:1907(明治40)年
閉校:1966(昭和41)年
校舎:()年竣工
石狩市浜益区床丹
床丹小学校のある床丹の集落は千代志別と似ていて同規模に思えた
学校はやはり一番奥にあり緊急避難場所になっているのも千代志別と一緒。
ただこれくらいしか、ここに学校があったと思えるものはなかった
笹薮が侵出しているようでやがては全面が覆われそうだ。
ちょっと残念な思いで引き返す。
しかし、すぐ下の橋から通学路的な小道が石垣の端に見える
奥を見てみると ブランコの支柱のようなものがあった!
廻りは笹が深くて行く気になれないが
これは学校があった時に一緒にあったものだろうね。
2021年11月撮影
「旧浜益村立群別小学校」
開校:1880(明治13)年
閉校:1963(昭和38)年
校舎:()年竣工
石狩市浜益区群別
群別(くんべつ)は先の2集落に比べると大きいほうになる
その学校は国道からすぐ見える、おそらく町で一番大きな建物「石狩市浜益スポーツセンター」にあった。
その新しさから校舎はいったん全部解体して新築したものだろう
このように浜益地区は空知の炭鉱地区とは違い
海沿いのわずかな土地に漁港を作りニシンを獲ってきた。
ニシンがいなくなるのと炭鉱が閉山するのと人が居なくなるのは同じかも知れないが。
建物の左下に碑がある
*浜益村史より
センター隣の自治会館が趣のある建物だった。
2021年11月撮影
「旧浜益村立浜益中央小学校」
開校:1964(昭和39)年
閉校:1999(平成11)年
校舎:1964(昭和39)年竣工
石狩市浜益区浜益
学校は先の群別から石狩方向へすぐ近くにあり
国道を下ると海 という下りの途中にあるのでつい通り過ぎてしまった。
車は校門の下か、前庭まで乗り入れることが出来るようだが
ここは一度校門への石段を登ってみることだ。
門柱と左手にトーテムポール 左側に碑が並び、右手に体育館と雑草の校庭がある
その体育館が実に味のある意匠じゃあないか
あの小窓と外壁の質感が好きだ。
*浜益村史より
2021年11月撮影
「旧浜益村立浜益尋常高等小学校」
開校:1878(明治11)年
閉校:1963(昭和38)年
校舎:()年竣工
石狩市浜益区浜益50-22
下の写真の通り門柱とプレートは道路を見下ろす形で
ネットにへばりつくように建っている
以前は階段があり校門の位置はここだったのかも知れない。
尋常小学校のあと、1951年から高校として使用され
2011年に浜益高校が閉校となった。
校舎は浜益中学校が移転して使用している。
*浜益村史より
*浜益村史より
2021年11月撮影
「旧浜益村立浜益中学校」
開校:1947(昭和22)年
閉校:2011(平成23)年
校舎:1973(昭和48)年竣工
石狩市浜益区川下141
浜益中学は昭和26年から、この川下の地にあり幾多の学校を統合している
やがて浜益高校が閉校になり2011年にそちらに移転した。
イメージでは浜益中学と言ってもここは川下
住民にしてみれば川下中学校にして欲しかったのではないか?
そんな意識が窓に貼られた文言に表れているとおもった。
校門は残るがプレートは無い
超えてすぐの住宅はかつての教員住宅かも知れない
校舎は一直線に伸びスマートな造りが遠くからでも見える
前庭、グラウンドと校舎の間を通りぐるっと1周が出来るように道がある
果たして一番遠い対面から見る校舎は
一見個性のないように見えるが奥に山を抱き、とても趣がある校舎ではないか
何か別の活用があればいいが。
*浜益村史より
2021年11月撮影
「旧浜益村立幌中学校」
開校:1947(昭和22)年
閉校:1999(平成11)年
校舎:()年竣工
石狩市浜益区幌
幌中学校も他の地域と同じように海の街だが学校は山側にある
学校は地域にとって重要な避難場所だからかな
平屋であるが他に高い建物がないのですぐに目に入る。
木造校舎が立派に残っていた
しかし、よく見ると玄関上にあったであろう庇が無い
ガラスが数枚割れていた
そして校舎から用具倉庫?へ続く連絡通路が崩壊している
倉庫側へは中に入れそうだがもちろん止める。
続く体育館だけはちょっとだけ新しいので改築したのだろう
1束の桜の木が見事に咲いており癒された。
隣の小学校と共同の碑があり閉校も同じだったようだ
珍しいが地方では過疎化により当然のことかも知れない
付近には教員住宅と思われる空家が数棟あった。
この木造校舎は朽ちるのを待つだけかもしれない。
2021年4月撮影
「旧浜益村立北部小学校」
開校:1965(昭和40)年
閉校:1999(平成11)年
校舎:(1965)年竣工
石狩市浜益区幌
北部小学校は幌中学校の道路を挟んだ東側にある
卒業生は必然的に古い校舎の幌中学へ進学をしたのだろう。
校舎は2階建てで昭和40年の竣工であり、廃校の中では新しいほうだ
元は「幌小学校」であったが床丹の学校と合併し北部小学校となった。
カマボコ型の体育館は健在であるが、ここも校舎との連絡通路が一部破損しており
ここから校内に入れるかもしれない(もちろん入らないし入ってはいけない)
建築物で目を惹いたのはお洒落な校門だ
幌中学と同様に教員住宅らしき空家があった
生徒はもちろんだが教師も廃校によって生活が変わるものだろう。
2021年4月撮影
「旧浜益村立濃昼小中学校」
開校:1897(明治30)年
閉校:1992(平成4)年
校舎:(昭和)年竣工
石狩市浜益区濃昼22-6
濃昼(ごきびる)は、近年は古山道が再び拓かれ登山ファンやハイカーなどで終末などは賑わっています。
さらに北上し、学校へは国道から標識に従い一旦左折し海へ向かって行きます
濃昼山道の入口のところで右に川を渡り、今度は山側へ走ると最奥に平屋の建物が見えてくる
これが濃昼小中学校で現在は個人の住宅として管理されているので門内には入らないほうが良いだろう
正面玄関の庇部分は残念ながら無くなったが校舎はほぼ現存しており、
季節柄、桜の花が綺麗だった。
2021年4月撮影
「旧浜益村立尻苗小学校」
開校:1894(明治27)年
閉校:1983(昭和58)年
校舎:(昭和)年竣工
石狩市浜益区送毛37
国道231号をさらに北上を続け、送毛の街を目指し国道を左に分けて海側に下る
送毛川の対岸に校舎らしき建物を見る
坂を上り学校敷地に入ったところで閉校の碑があった。
また手前の施設は改築されたようで外壁がきれいだ
隣に校舎棟、奥に体育館と思われる建物と教員住宅と思われる家がある
現在は宗教法人の道場として活用されており、敷地奥に入るのは止めた
尻苗地区があるのに尻苗小学校があるのは送毛地区です。
2021年4月撮影
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます