札幌・北海道のレトロ建物大好きおぢさん日記

札幌(北海道)のレトロでモダンな建物を見たり撮影するのを趣味としています。

木造校舎・廃校 赤井川村の閉校

2024-07-12 09:36:21 | 木造校舎・廃校

小学校 赤字は今回レポート

  • 赤井川村立落合小学校常盤分校(1969年常盤小から移行、1978年閉校
  • 赤井川村立落合小学校(2001年赤井川村立都小学校へ統合)

中学校

  • 赤井川村立常盤中学校(1980年都中常盤分校となり、1986年廃校)
  • 赤井川村立赤井川中学校〈旧〉(1992年都中と統合し赤井川村立赤井川中学校〈新〉へ)
  • 赤井川村立都中学校(1992年赤井川中〈旧〉と統合し赤井川中〈新〉へ)


赤井川村は火山の噴火活動で出来たカルデラ盆地の町であり
廻りを山に囲まれた豪雪地帯である

観光ではキロロリゾートが有名で上部にある最高峰「余市岳」は
北海道内3位の標高で、札幌市南区との境界にあり最高峰を分け合っている。

 


「旧赤井川村立都小学校、中学校跡地」

 

開校:小学校:明治35(1902)年 中学校:昭和22(1947)年
閉校:中学校:平成4(1992)年
校舎:()年竣工

赤井川村都

 

現在、都小学校は別の場所に移転してきれいな校舎になっている
都中学校も当初は併置されていたが閉校した

この校舎になる前はそれぞれ独立校舎であった。

まず旧都小学校があった場所は現在「都季節保育所」が建っており
旧校舎はすでに解体された

すぐ隣にプレハブがあるが、この奥に体育館だけが再活用されて残っていた
だが、そちらも解体されている。

 

 


※赤井川村史より

 

次に旧都中学校だが、こちらも校舎はすでに解体されて
広い運動公園になっていた。

ナビは「都運動公園」

旧中学校時代の校庭やグラウンドを活用して運動公園としたのだろう
広い駐車場にトイレも設置されている


 

尚、都小学校は2026年3月で閉校することが決まった
現在の校舎はきっと何かに転用されることだろう。

 

2024年6月29日撮影

 

 

 

「旧赤井川村立赤井川中学校跡地」

 

開校:昭和22(1947)年
閉校:平成4(1992)年
校舎:()年竣工

赤井川村赤井川123

 

都中学校跡地から赤井川市内へ
少し小高くなる坂道の途中にあるのが
「赤井川村郷土資料館」

旧赤井川中学校はかつてここにあった。


現在残っている建物は「特別教室」の部分で、新たに玄関とトイレを増築したような造りだ
一部は損傷のある個所も見られるが、古い建物らしい味がある
残念ながら訪問日は閉館日だったので、いつか機会があれば見に行きたい。

本校舎は、右側の低い場所に特別教室とL字になる形で建っていた
特別教室と繋がっていて本校舎の右側が校庭だった。


※赤井川村史より

 

現在は消防関係の建物がある場所が本校舎と校庭である。

 

 

 

 

 

 

 

カルデラの町らしく廻りは山に囲まれている

 

2024年6月29日撮影

 

 

 

「旧赤井川村立落合小学校」

 

開校:明治34(1901)年
閉校:平成13(2001)年
校舎:()年竣工

赤井川村落合

 

赤井川市内からキロロリゾート・小樽方面へ向けて国道393号線を走る

ナビは「川元建設㈱作業所」で現在は新幹線関係の工事事務所がある場所に
旧落合小学校があった

 


すでに解体された校舎は国道沿いに横一直線で山側に校庭がある珍しい建て方ではないか?
よく見る現存校舎は大通り側に校庭があり校舎は奥が多いように思えるが…

パッと見、学校があった証は何も見当たらないが、国道近くに石碑のようなものがあった
倒れてなのか、寝せて置いたのかは不明だが学校の碑らしきものがあった。

このような扱いはどうなのだろう
村として対策は無いのだろうかと思った。

 

 

さらによく見ると何かがあった基礎や教職員住宅のような建物(利用中)
敷地には入らずズームで鉄棒らしきものもあった。

 

 

 

2024年6月29日撮影

 

 

 

「旧赤井川村立落合小学校常盤分校」

 

開校:大正6(1917)年
閉校:昭和53(1983)年
校舎:()年竣工

赤井川村常盤

 

赤井川村最後の訪問はさらに車をキロロ方面に走らす

やがて右折でキロロへのゲートがあるので、少し過ぎてから停車
この場所に旧常盤分校があった。

 

振り返ると左にキロロへのゲートあり

 

現在は白い標識と朽ち果てそうな門が一つだけあり

 

 

 

 

その奥は草木が多すぎ何も見えない
もっとも学校を示すものはもう何も残ってはいないかもだが

 

帰途は小樽廻りで帰札した


※赤井川村史より

 


※頭には入れていたはずだが、赤井川村立常盤中学校を訪問し忘れた
場所は現、山中牧場の向かいあたりで数軒の住宅がある場所 次回に機会を見て行きたい

 

2024年6月29日撮影

 

 


木造校舎・廃校 俱知安町の閉校 ②

2024-07-07 13:54:16 | 木造校舎・廃校

俱知安町の閉校(小学校)

  • 倶知安町立大和小学校(1976年)
  • 倶知安町立峠下小学校(1976年)
  • 倶知安町立末広小学校(1980年)
  • 倶知安町立寒別小学校(1984年倶知安町立東小学校開校に伴い廃校、跡地はアトリエ兼住宅に転用)
  • 倶知安町立巽小学校(同上)
  • 倶知安町立富士見小学校(同上)
  • 倶知安町立瑞穂小学校(同上)
  • 倶知安町立八幡小学校(同上)
  • 倶知安町立比羅夫小学校(1987年俱知安町立西小学校開校に伴い廃校)

中学校

  • 倶知安町立瑞穂中学校(1979年統合により東陵中へ)
  • 倶知安町立八幡中学校(同上)
  • 倶知安町立寒別中学校(同上)
  • 倶知安町立樺山中学校(同上)
  • 倶知安町立倶知安中学校〈旧〉(2013年東陵中と統合し倶知安町立倶知安中学校〈新〉へ)
  • 倶知安町立東陵中学校(2013年倶知安中〈旧〉と統合し倶知安中〈新〉へ)

 

俱知安町の閉校巡りはほぼ終了したが、冬季に廻ったことで雪のため満足に見ることが出来なかったケースが多い

夏での状況を確認に、今回は京極から赤井川へ抜けるルート上にある閉校3校を見て来た。

 

 

「旧倶知安町立寒別小学校」

 

開校:1911(明治44)年
閉校:1984(昭和59)年
校舎:()年竣工

倶知安町寒別103

 

貴重な木造校舎とバックにある羊蹄山とが素晴らしいロケーションを作る
もう四回目の訪問になった。

校門の横にあるシンボルツリーは大きく、葉がちょっと羊蹄山や校舎にかかるのがいい

旧校舎は現在使用している工房のおかげで、当時の姿を今でも垣間見える。


羊蹄山と共にある学校は近隣町村にたくさんあり、木造校舎のままはニセコ町にもあるがニセコ連山のイメージが強い

個人的にはこの学校がベストである。

 

 

 

 

 

 

 

ニセコアンヌプリも見える

 

 

前回は2021年11月撮影

 

 

 

2024年6月29日撮影

 

 

「旧倶知安町立八幡小学校」

 

開校:1896(明治29)年
閉校:1984(昭和59)年
校舎:()年竣工

倶知安町八幡480

 

旧八幡小学校は倶知安町の教育発祥の地である

市内中心部からはやや離れているが ここも羊蹄山がそこにある感覚だろう。

前回の訪問時では雪で石碑などほとんど見れなかったが
今回の訪問ではっきり見れた。

現在は新幹線工事の事務所があり車がたくさんいる
これも工事が終わった後は、以前からの静けさになるだろう

校舎ほかすでに解体されているが、古い航空写真に唯一写っている建物があった
現在は農機具の倉庫として活用している
だから現存しているのだ

 

 


前回の訪問時はきちんと立っていたのにな

 

 

 

 

 

 

 

 

この木造建物は旧学校関係の一部と思われる

 

 

 

前回は2021年11月撮影

 

 

 

 

2024年6月29日撮影

 

 

「旧倶知安町立大和小学校」

 

開校:1913(大正2)年
閉校:1976(昭和51)年
校舎:()年竣工

倶知安町大和218

 

前回の訪問時は12月だったがさすがの豪雪地帯で
札幌とは違う世界があった。

敷地には入れず見れずで何とも不完全燃焼の訪問だったが
今回はあまりの雑草のために入る気が無くなった。

石碑は見えたが下部の「沿革」は満足に見れなかった
この状況は草木が枯れる晩秋か雪解けの春でなければ無理だろう。

学校の閉校、解体後に公園として利用されたようだが
木造の東屋?のようなものが唯一見えた がこれは閉校後に造ったものだろうね。

倶知安町の外れではあるが、やはり羊蹄山はいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回は2022年12月撮影

 

 

 

 

2024年6月29日撮影

 


後志の建築探訪 喜茂別町 倶知安町 ニセコ町 京極町 ※京極町で1軒追加しました

2024-07-04 16:51:14 | 喜茂別町 京極町 俱知安町 ニセコ町 真狩村

 

京極町の旧脇方小中学校を訪れた時に見てきまし

「日鐡礦業株式会社北海道礦業所 倶知安礦山記念碑と倉庫」 NEW

 

所在地:京極町脇方
建設年:大正?()年 

 

京極町脇方にあった鉱山は、大正8年に日本製鋼所室倶知安鉱務所が開設される
大正9年に鉱石運搬専用軌道として胆振線が布設され脇方駅が開業した。

第一次世界大戦後の不況のあおりで大正10年に一時休山し、大正14年に操業を再開している。

昭和では軍需鉱業の拡大で鉱山に増産が要請、終戦まで最盛期を迎える
昭和17年から昭和19年の戦時中では毎年50万t以上を産出、周囲には鉱山の従事者、関係者など
4,000~6,000人近くも暮らしていたらしい。

 

終戦後は生産量が激減したり大火などがあり人口は減少していく
その後、昭和44年に閉山し脇方駅も昭和45年11月1日に廃止となった
脇方小中学校も昭和45年に閉校している。

やはりヤマが閉山したら人は一気に減るものだ。

 


※地理院地図 昭和36~44年 鉱山は稼働中で写真右側から外れた場所にあった
その手前に従事者の住宅群が見える。
赤印は現在記念碑と倉庫が現存する場所
左上が「旧脇方小中学校」の校庭と校舎 鉄道が左下から大きく右折した突き当りが「脇方駅」

 

※地理院地図 昭和45~49年 閉山、廃線、閉校のころ 「最終処分場」はまだないが建物はもはやほとんど見当たらない
左上に「旧脇方小中学校」の校庭跡と校舎の一部がある 「脇方駅」跡地は2センチほど右の広い白地の場所

 

※地理院地図 現在 赤い印が記念碑と倉庫のある場所 すぐ左上の「最終処分場」以外は何も見当たらない

 

ここを進入すると、かつての鉱山施設(住宅)がたくさんあった

 

付近は、現在は記念碑と住居跡地、倉庫跡、鉄道橋脚跡などが残る
かつて数千人が暮らした住宅は全戸解体され跡地しかなく
記念碑と旧倉庫だけがそこにある。

ここもしっかりと草刈りがされていた


それにしても怖いくらいの静けさと寂しさであった。

 

 


※2024年6月29日撮影

 

 

 

ここから過去掲載

 

 

今回はニセコのホテルに行った後に珍しそうな発電所をマップで見つけたので行ってみた。

「王子製紙 尻別第一発電所」

所在地:ニセコ町曽我8
建設年:大正10(1921)年 

 

ニセコ町といえば次々に新しい建物が建っているイメージだが
この発電所へは車1台がやっとの砂利道を走ってたどりつく

橋にはがっしりと門があり関係者以外は通さない
なので撮影は対岸からだけになる

上の事務所棟だろうか真新しい赤い屋根と白い壁がまぶしい
発電施設はさすがに補修の跡が見て取れるが躯体に変化はなさそうだ

縦長の窓がレトロでお洒落に感じる
このような施設には機能重視の設計だと思うので建設当時は
普通にこのような外観の建物が建てられていたと推測する。

 

 

 

 


2022年9月撮影

 

 

 

11月の末に後志地方の羊蹄山を囲む街をぐるっと廻って来ました。

喜茂別町、京極町、倶知安町、ニセコ町、真狩村、留寿都村です。

ただ主目的は「閉校した学校のその後」なので、あまり予備知識は入れてなかったが
車で走っていても「お!」っと思わせるような建物はなかったなぁ…

学校は後にして3軒の撮影した建物を。

 

「クレードル興農(株)喜茂別工場事務所」

所在地:喜茂別町字喜茂別
建設年:昭和23(1948)年 

今年の3月に訪問した建物。
印象的な星型の大きな窓も健在でほっとした

本来は事務所を挟んで右に羊蹄山、左に尻別岳が見えるが
この時点では羊蹄山は雲の中であった。

元はホワイトアスパラガスの生産工場の事務所で
クレードルブランドで農家が独自に造った工場である 現在も現役でクレードル興農に社名を変更し事務所として使われている。
喜茂別町役場の隣ではあるが企業の敷地内にあるので平日の見学は避けたほうが良さそうだ
それでも工場には近寄ったりしないこと。

 

 

「旧寒別郵便局」

所在地:倶知安町字寒別
建設年:()年 

他の方のネット情報を参考にさせてもらった
目印は寒別駐在所の真向かいである

構造の違う住宅3軒が繋がっているように見える
グーグルマップでは「東部地域会館」の表示があり以前は会館として利用されたかも知れない
現在は立派な会館が駐在所の隣にあり倶知安町のHPでも記載されている。

郵便ポストはその名残りか
並び3軒に人が住んでいる気配はなかった。

 

 

「斜めの家(通称)」


所在地:ニセコ町
建設年:昭和47(1972)年
設 計:倉本龍彦氏

数年前から存在は知っていて、初めて見たときは目の錯覚かと思った
まさかそんなに前から建っているものとは…

設計の倉本氏は、この家を「ばあちゃん家」と名付けている
それは「たくちゃん家」と、ご子息の名前を名付けた月寒の家にも表れている
(現カフェ「珈琲館」)

たくちゃんから見た氏の母親がばあちゃんになるわけだ。

内部も外部もリフォームされたようだ

以前は氏自ら見学会を開いたこともある。

このような家を考えたのはいくつかの理由があるが
「目立ちたいから(笑)」とインタビュー記事にあったと思う
まだ20代の倉本氏にとってはそれが一番の設計動機ではないか

こちらの図面はフランスのポンピドーセンターに保存されている。

2021年11月28日撮影 


木造校舎・廃校 京極町の閉校 ※2校追加しました

2024-07-02 18:08:54 | 木造校舎・廃校

京極町の閉校(小学校) 赤字はレポート済 青字は今回レポート

  • 京極町立脇方小学校(1970年10月31日)
  • 京極町立東花小学校(1976年)
  • 京極町立更進小学校(1981年)
  • 京極町立錦小学校(1981年)
  • 京極町立北岡小学校(1983年)
  • 京極町立南京極小学校(2017年



「旧京極町立錦小学校」NEW

 

開校:明治39(1906)年
閉校:昭和56(1981)年
校舎:()年竣工

京極町錦


行ってみてわかるが京極町の閉校訪問は結構大変だ
街の東南側の山中にほとんどの閉校があるが、「抜けて次へ」が中々出来ない

なので到着したらまた幹線道路まで戻り、次の横道へ行く
その繰り返しが多いので時間がかかるのだ。

それだけに前回「旧更新小学校」と「旧北岡小学校」を済ませたのは大きかった。


旧錦小学校へはナビ「馬頭観世音」で。

実際にはその手前にある廃屋を過ぎてすぐの左側にある大き目の樹木が通学路の目印だったが……



(振り返ると右手に廃屋)

 

なんと通学路であるスロープ上の草刈りがされていた!
季節的に雑草が背丈までありそうなのを予測して、藪漕ぎ用の登山用ポールも用意したのだが、これは嬉しい誤算であった。

ここが通れなければ「馬頭観世音」からの私道を行かなければならず、面倒だなと思っていた

(こんな感じで畑の間を行くことになる)

 

 


すぐに校門が見えた
補修はしてあるが、やはり校門があると来たかいがあるね

 

 

 

 

 

 

同じく校庭であった場所も雑草が刈られていたので
何かに使う予定なのか

他に学校を示すものは見当たらなかったが
木製の電柱は当時の学校のためのものだろう。

 

 

 

 

 

 

見学後にグーグルマップに表記があった「錦コミュニティセンター」は解体されて空き地になっていた。

 

旧錦小学校は、今までの閉校の中でトップクラスの
「なぜここに学校が」の1校であった。

 

2024年6月29日撮影

 

 

「旧京極町立脇方小中学校」NEW

 

開校:明治44(1911)年
閉校:昭和45(1970)年
校舎:()年竣工

京極町脇方

 

旧錦小学校跡地から一度国道276号線に戻り北上する
京極町の市街地に入り道道784号線、黒橋京極線を東進する

ナビは「京極町最終処分場」である。

 

ワッカタサップ川を1回、2回と渡ると左に川を見ながら3回目の橋を超えると目的地の「京極最終処分場」があった。

道は施設で左右に分かれており、左側の奥にすでに大き目の石碑を見る(処分場の正面入り口横)

 

 

ここから直では行けない

そのまま左の道に進むと少しで右にスィッチバックして入る小道が現れるが
ここが「旧脇方小中学校」の通学路であった。


錦小学校で驚いたが、なんとここの緩やかな通学路スロープも
草刈りが行われていた!

(登ってから振り返る)

 

上がり切るとそこが「旧脇方小中学校」の校庭である

 

先ほど見た石碑は「最終処分場」側にあるので
車でギリギリまで近づき撮影をした
ここも草刈りがされていた。

 

 

 

プレートこそ無いが校門が現存している
その向こうは地面が掘削されており行けない

 

 

他の方の記録ではやはり校門の向こうが通学路であり
処分場を建設した時にでも通学路と校門を寸断する工事をしたらしい。

ちなみに「京極最終処分場」のその昔は鉄道「脇方駅」だった。

 

校庭の向こうに少し高くなった場所があり、石段とコンクリの煙突が見えた
このあたりに校舎があったのだろう

煙突があるなら他の物も…と思ったが、藪漕ぎになりそうだし
特に今は熊にビビッているので徒歩での行進は止めた。

 

 

 

 

「旧錦小学校」と比べて、こちらは鉱山のための集落がかつてあり
鉄道の駅もあったので学校の設立は必須だったのだろう。

 

京極町の「旧脇方小中学校」と「旧錦小学校」跡地は思わぬ草刈りによって簡単に見ることが出来た。

同じ人かも知れぬが非常に感謝します。

 

国道に戻る時に撮影
羊蹄山は畑の中の山のイメージあり

2024年6月29日撮影

 

※尚、「錦地区」からさらに東側に入り込む「旧東花小学校」は、もはや普通に雑草生い茂る原野のみとのレポートしか見ていないのでパスした。

 

 

 

ここから過去掲載

 

「旧京極町立更進小学校」

 

開校:明治41(1908)年
閉校:昭和56(1981)年
校舎:()年竣工

京極町更進


旧更進小学校へは京極町の道の駅を出て南下する
国道276号線から左折し丘に向かって登っていくが、この時期冬道と
狭い道路に一抹の不安を持つ。

 

だが訪問時のクリスマス近辺では除雪がしっかりなされ四輪駆動車で
なくても問題はなさそう。

ナビは「吉川英昭農場」で。

道の駅からは15分もかからなかっただろう
ナビの目的地の手前左側に大きな鉄塔があり、この下に学校があった。

旧更進小学校は貴重な木造校舎が現存していた
しかもレンガの校門には校名プレートも現存している。

中の校庭まで綺麗に除雪されていたので何かに活用されているようだ
そんなこともあり敷地内に入らずズーム撮影とした。

赤い校門と木造校舎、そして雪
もしかして古い学校校舎を見るには冬が最適なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2023年12月撮影

 

 

 

「旧京極町立北岡小学校」


※京極町史より

 

開校:明治38(1905)年
閉校:昭和58(1983)年
校舎:()年竣工

京極町北岡343番地


旧北岡小学校跡地も国道276号線から左への道に入る
こちらはそう奥まで行かずに目的地である「北岡ふれあいセンター」に到着。

校舎はとうに解体され、校門やその他学校があった証は一つも見受けられなかった。

もしかしてセンターの内部に学校の写真や記念品などが
あるのかも知れないが……

奥の林の手前に石碑があるが学校とは無関係のようだ
この場所からは羊蹄山も小山の陰に頭が見えるだけ


ただ1本、ポツンとある木はシンボルツリーとして
学校の過去と現在を見てきているのだろう。

 

 

 

 

 


2023年12月撮影

 

 

 

「旧京極町立南京極小学校」

 

開校:1948(昭和23)年
閉校:2017(平成29)年
校舎:1948(昭和23)年竣工

京極町字川西156

羊蹄小学校から一度戻る形で道を進み、京極町に入る
ナビに出ている旧南京極小学校に着く。

学校入口に民家があるので少し気にしながら校門の直前に車を停める
ちょうど羊蹄山の全景が見えて最高のロケーションになった。

平屋の校舎と体育館は2017年の閉校らしく綺麗ですっきりとしていた
玄関がとても可愛く感じる
部外者から見るとうらやましいほどの環境に映るが
卒業生たちはどうだろうか。

 

 

 

 

 

 

 


2021年11月撮影