ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

細くなっていく月 冬の星空 寒さに強い菊の花

2024-11-26 10:54:31 | 草花

暦の「小雪」に入り、公園などの木の葉は紅葉・黄葉を交えて、早いものでは落ち葉となって地面を飾っています。

ここのところ、度々団地に行って高楼に上り、遠くの山並みを眺めるのですが、まだ雪山の姿ははっきりと

確認出来てはいません。昔と違い空気が濁っていて、すっきりとした姿が見えないのが残念です。

毎晩夜空を眺めて、月を探していますが、今時分は月の出る時刻がどんどん遅くなり、本日(11/26)では午前1時過ぎと

なっていますので、もう起きてお付き合い出来ません。

そこで朝の入り残りの月に期待するわけですが、本日の場合は西より天気が崩れて来ていて、13時50分頃に沈む月を見つ

出すことは出来ないでしょう。 とりあえずこれまでの月のダイエット状況を記します。

20日月齢19.0 ↓

 

22日月齢20.5 ↓

 

24日月齢22.5(下弦の月) ↓

 

25日 月齢23.4 ↓

本日(26日)は曇り空で見えませんが、明日は一段と細くなっていることでしょうから、明るい昼間の光の中では

見つけることが難しくなっていることでしょうね。

これからはよほど早起きしないと月を見ることが出来ないかもしれません。

恐らく12月5日ごろの西空の月までお月見はお預けになりそうです。

 

オリオン座 ↓

これからはどんどん見やすい時間にシフトするようになってきます。

 

木星 ↓

拡大していったら衛星も見えていました。

 

すばる ↓

「昴(すばる)」と言えば昨年10月に亡くなった谷村新司さんを思い出します。

戒名は「天昴院音薫法楽日新居士」と、やはり「昴」の人でした。

 

この冬は未だ降りて来てはいませんが、霜が降りても咲き続ける庭の菊たち:

 

 

 

一年中花を見せてくれるカーネーション ↓

 

秋の閉鎖花センボンヤリ ↓

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近所の神社の新嘗祭

2024-11-25 16:19:18 | 草花

伊勢神宮で新嘗祭が行われるときには、皇族の一部の方も参加されるということはTVなどで知ったことでした。

先日天満神社に行って写真を撮っているときに、神社の氏子さんから、23日にこの神社でも新嘗祭が行われるということを聞きましたので、天神様の新嘗祭がどんなものなのか行ってみることにしました。

新嘗祭は午後二時から始まります。

 

 

本殿前 ↓

 

 

大御饌(おおみけ)が行く。 ↓

 

まずは天神様に挨拶 ↓

学問の神様(菅原道真)に相応しく筆の塚がありました。

 

本殿を目指す ↓

 

新嘗祭(本殿にて):

 

 

天神様は意外と美食家で、大食漢らしくて、次から次へと10種類ほどのお供物が恭しく、献上されて行きました。

そして、上げられたものが、同じように下げられて・・・大雑把に所要一時間ほど掛かっていました。

 

本堂の外では天神様におなじみの「牛」さんも控えています。 ↓

 

本堂での行事が終わると・・・↓

外に出て、今度は天照大神様に? お参りするのでしょうか?

 

小生はこれにて神社から退出しました。

 

昭和天皇の御製 ↓

天満神社の外垣に昭和天皇の御製がありました。

♪天地 (あめつち) の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を ♪ と読めます。

この御歌は昭和8年歌会始のものです。

その前年に五・一五事件がありましたので、そのことを踏まえるとこの歌の意味もより深いものとなりましょう。

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ひょんなことから  徳川家康に所縁の場所へと・・・・・

2024-11-23 21:46:45 | 草花

自転車でお隣、安城市の南部にある徳川家康ゆかりのお寺を訪ねました。

その発端となったのはその2~3日前に昔からある田舎の道で下のような古い石の道標を見たからでした。 

古い石の道標 ↓

このことをいつもの大先輩に話すと、その道標には「右 のてら」と彫られていておそらく蓮如上人とゆかりの「本證寺」のある(安城市) 野寺町字野寺を指しているのだろう。ということになりました。

その「本證寺」こそはご当地徳川家康(公)の「三大危難」として名を知られる、三河一向一揆の本拠地でありました。

家康が22歳から41歳までの間に直面した生き死にの重大場面を「家康の三大危難」と言っていますが、それは「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」の三件でありました。

(ところで一向一揆の「一向宗」とは、浄土真宗本願寺派のことで、信心が深く結束力も強固でありました。)

三河一向一揆は先般のNHK大河ドラマ「どうする家康」で相当こだわりを入れたところではなかったでしょうか。

家のすぐ近くに歴史で語られた三河一向一揆の本拠地を案内する石の道標があったことにより、これは放ってはおけなくなりました。

さっそく自転車で訪問することになりましたが、何しろ今から400年以上も前の、昔の道があるわけもなく、今の世で使われている道を自転車漕いで行ってきました。

名古屋鉄道西尾線の南桜井駅 ↓

これを目印にしてきました。目的地はもう近い。

 

バス停 ↓

バス停の名前はそのものズバリでした。

 

本證寺の山門 ↓

山門という言葉を使わずに「大門」と案内されていました。

 

門柱 ↓

お隣は石の産地岡崎市ですので、良い石柱が建っています。

 

本堂 ↓

この日は建物の内外をいろいろ手入れしていました。史跡ですので念が入っています。

 

祭壇 ↓

本堂の中に入らせていただきお参りします。「つくり」の一つ一つにうんちくがあるようですが省略。

 

御本尊 ↓

阿弥陀如来様の立像

 

本堂とお庫裏の連絡路 ↓

雨に濡れることなく長い道のりを行き来出来ます。

 

お庫裏 ↓

立派な建物ですね。この日はここでお茶会が催されていました。

 

鼓楼 ↓

遠くからも良く見えて、それはまるでお城の様な見え方でした。

 

鐘楼 ↓

これのつくりにも蘊蓄がありましたが、それも省略。

 

経蔵(きょうぞう) ↓

 

経蔵を持つ寺は少ないと聞きます。

 

裏門 ↓

この裏門も自讃していましたが、ナルホド確かに手間暇をかけて維持管理されています。

この脇に蓮池がありましたが、時季が違いますので、咲いたときに再訪したいものです。

このお寺は一向一揆の時の一揆勢の中心拠点であった当時は、(家康と戦った時には)城郭寺院として

外堀・内堀を巡らせていたのです。

 

とても見ごたえのあったお寺という印象を抱いて帰路につきます。

 

(途中で自転車がパンク・・・一時間ほど自転車を引いて行きます。)

 

夕焼け ↓ ↓

鈴鹿の山が今年一番と言えるほどきれいなシルエットを見せてくれます。

 

明日天気にな~れ。

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寒くなれば・・・・山望と寺社巡り

2024-11-20 16:47:04 | 草花

暑い日がつい先日まで続いていましたが、今度は俄かに寒い日が続くようになりました。

寒さを歓迎するわけではありませんが、夏の暑さは逃げようがありませんが、冬の寒さはこちらの工夫次第で何とかなりそう・・・という感じもあり、酷暑の時ほどには絶望感を持つことは無いように思います。(酷暑:絶望で、厳寒:悲壮?)

冬は空気が澄んで、遠くの山への見通しも良く、夜空の星の輝きも、星空の役者たちも揃ってきます。

そんなことが有りますので、「寒いなりに楽しみ方もあるものだ」・・・と思うことにしています。

空が澄んで見通しが良さそうな日の朝、団地の高楼に上って山望を楽しんでから、今度は趣を変えて、寺社巡りをしてきました。

木曽御嶽 ↓

未だ雪が見えていません。

 

中央アルプス ↓

こちらも雪が見えてきていません。

 

南木曽岳 ↓

中央アルプスの山体の手前になって分かりづらいのですが、手前にこんもりとした塊がぼんやり見えています。

双眼鏡で確認するとこれが南木曽岳でした。

 

恵那山 ↓

稜線付近で雲が遊んでいます。

 

本宮山 ↓

三河の本宮山もやや霞んだ向こうにありました。

 

伊吹山 ↓

この日はやっと見えるかどうかという程度でした。これでは雪があるかどうか確認不能です。

 

この後高楼から下りて、付近の寺社巡りに移行します。

 

十応寺 ↓

元は禅宗のお寺だったそうですが今は廃寺になっていました。門前にたくさんの地蔵尊がおわします。

 

願行寺 ↓

立派な山門(藩の陣屋の門を移築した)を額縁代りにして本堂を撮りました。浄土宗のお寺です。

その山門 ↓

 

境内にツワブキ ↓

 

勝宝寺 ↓

こちらは浄土真宗・大谷派 門前に「人は生きているんじゃない 生かされているんだ」とありました。

 

今度は神社に向かいます。

天満神社 ↓

天神様(菅原道真公)をお祀りしている神社で、清潔な感じがしました。

天神様のシンボルマーク ↓

東風(こち)吹(ふ)かば匂(にほ)ひおこせよ梅(むめ)の花(はな)あるじなしとて春(はる)を忘(わす)るな

拾遺和歌集 雑春 1006番

瓦の目につくところには梅のマークがびっしり。

道真は901年に、九州の大宰府に左遷されます。この歌は都を発つときの歌として有名です。

なお、東風(こち)は、東から西に吹く風のことであり、大宰府では都から吹いてくる風がすなわち東風であります。

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この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の・・・・・・

2024-11-17 21:37:34 | 草花

NHKの大河ドラマは今晩、太閤・藤原道長の歌とされる 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」 という歌を皆が唱和して・・・・・エンディングとなる、印象的な終わり方でした。

 

11月15日は十五夜月で「望月」でもありました。しかし、雨降りお月さんでもありました。 ↓

雨降りお月さんは「雲の影」であり、月の姿を見ることが出来たのは午後10時11分のことで

それも雲の向こうに薄く見えて居た程度でした。この時の月齢は14.0

 

翌16日は満月なのですが、実は十六夜の月なのです。しかし、雨空のために月は全く見えませんでした。

その月が西空に入り残った17日早朝にやっと十六夜の満月を見ることが出来ました。 ↓

これが11/17日の朝未だき、西空に入り残っていた満月で、十六夜の月になります。(月齢15.3)

 

ところで、藤原道長が「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という

有名な歌を詠んだのは寛仁2年10月16日(西暦1018年11月26日)のことであり、道長が見ていた月は

旧暦の16日ですから新月を1日と数えていくやり方ですと、16日はズバリ十六夜の月なんです。

そしてこの日は太陽暦にすると11月26日となりますので、ちょうど今頃の月を見て歌を詠んだことになります。

(どうでも良い揚げ足取りになりますが、道長が眺めて歌を詠んだ時の月は旧暦の16日で十六夜の月です。

 つまり望月・十五夜の月よりも一日遅れの月だったのです。)

 

ところで、十五夜の月と十六夜の月を上下に並べてみましたが、見た目の丸さに優劣はありましょうか?

 

※恩ある大先輩からモチベーションを頂き、この記事を起こすことに相成りました。

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