アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

自分の幼い日を追体験した。そんな朝だった

2008-08-27 | Weblog
 このところ、妻の出勤時刻が早い。私と息子が寝ているうちに家を出て行く日が続いている。


     ◇


 朝のまどろみの中、息子は私のところにごろごろと転がってきて、抱きついて寝ている。



 母親と間違えているのだろう。が、しばらくすると違和感を自覚して、にわかに目覚める。





 「あれっ、お母さんは?」

 「もうお仕事に行ったよ」




     ◇


 昨年の今頃は、それからが息子と私の朝の闘いだった。

 「お母さん、お母さん」と連呼して泣きじゃくり、そのあと「お父さんなんて大嫌い」。


 玄関の鍵を自力で開けて、母親を追いかけて裸足で外に飛び出していってしまったこともあった。





 しかし、このごろは違う。「あっ、そうか」とひとこと。再び布団に横になって、しばらく頭の中で現状を反芻したあと、「じゃあ、起きよう」。


自分で言い出して保育園に行く支度を始める。



     ◇



 朝の過ごし方が、すごく進歩した。





 食事も排泄も、自分でできる。

 歯磨きをして、顔を洗って出かける。




 妻がいない日でも、一連の朝の生活がとても円滑に進んでいる。


     ◇


 息子と抱き合って眠っていた今朝のこと。


 まったく意識から外れていた、陰を潜めていた記憶が蘇った。


 私も父親と抱き合って眠っていた。確かにそんな時期があった。




 母の布団にももぐりこんでいた記憶は多いが、実は父の布団にももぐりこんでいた。




 後の記憶に覆われてしまったのだろう。父親に対しては「厳格」というイメージばかりだった。しかし、あのころの父は、いつも抱きしめてくれた。





 今朝のまどろみの中の記憶。



 多分、いまの息子と同じくらいの年齢の私は、布団の中で父親にしがみついていた。

 父親が私に頬ずりをしてきた。



 そこで私は身を反らした。

 頬ずりされたときのひげが痛かった。




     ◇


 父親は大好きだった。

 が、それ以来、一緒に寝なくなった。その後、父との距離が急速に開いていった気がする。





 ひげの痛いのって子供にはいやなんだよなぁ。


 でも、おれはそんなつまんないことをきっかけに、オヤジとの距離を置くようになってしまったのかもなぁ。




     ◇


 子育ての意義は多々ある。苦労を通して親の愛情を理解すること。また、育てていながら、自らの学びも多い。

 さらに、子どもの世話をしているうちに、自分の幼少期を追体験し、自分と親との関係を再認識できることも、人生の中での重要な意義であると思う。



      ◇


 息子には、物心がついたら祖父母や曽祖父母、さらにその前の世代の人たちのことも教えてあげたい。連綿とつながる自身への系譜であり、自分もその連環の一部となること。さらには、その意義についても。


 親と子がどう離れていくか。そのあたりも考えながら。
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