2022年も師走に突入。
忘年会やクリスマス、正月仕度で、何かと物入りな時季がやってきた。
しかし、そんなことおかまいなく、前回も書いたとおり、懐は寒々しいかぎり。
更に、昨今の物価高が、それに追い討ちをかけている。
色々な訳があることは理解できるけど、あちらこちらでモノの値段が上がりっぱなし。
とりわけ、庶民の財布を直撃する電気・ガス・食品については、頻繁にニュースになっている。
ガソリンも、一時期に比べれば下がりはしたものの、高止まりが続いている。
もともと使う金額が小さいから、これまであまり意識することはなかったが、ここにきて生活コストの高さを実感することが増えてきた。
私は、毎月、決めた予算内でやりくりしているのだが、以前に比べて、月末にかけての残金の少なさを痛感させられるようになってきたのだ。
予算を増やせない以上は、支出を抑えるしかない。
まずは、電気とガス。
もともと省エネ生活を心掛けている方だけど、今は、一層、それを強化。
エアコンはあるが、暖房で使うことはせず。
コンセントを抜いて休眠状態に。
コタツやホットカーペットは、そもそも持っておらず。
部屋にある暖房器具は、小さなガスストーブだけ。
どうしても寒いときにはこれを使い、あとは、厚着と靴下と膝掛でしのぐ。
また、どんなに寒い日でも、風呂は短いシャワーのみ。
浴槽に湯をためて温まるなんて贅沢なことは一切しない。
光熱費もさることながら、食費の節約効果は更に大きい。
その分、やり甲斐(?)はある。
ただ、単に「安ければいい」というのではなく、量・味・質が値段以上でなければならない。
それで、しばらく試行錯誤。
で、結局、色々と考えたり選んだりするのが面倒臭くなり、現在は、三食、ほとんど同じものを食べるようになっている。
魚はしばらく前から、今は、肉も食べなくなっている。
かつては庶民の味方だった鶏肉も、今は、例年にないくらいの品薄状態で、値段もかなり上がっている。
どうしても食べたければ買えばいいのだが、そこまでの食欲はないし、小さなことでも例外をつくると、せっかくの節約生活が総崩れを起こしかねないので、このところは、精肉コーナーには近寄らないようにしている。
しばらく前の暖かい季節の話だが、その鶏肉について、ちょっとした出来事があった。
ある日、私は、よく利用しているスーパーに食品の買い出しに出掛けた。
そのときは“肉気分”だったので、いつもの鶏肉を目当てに精肉売場へ。
すると、“半額”の割引シールが貼られた鶏肉が一パック出ていた。
消費期限は“当日”。
節約志向の強い・・・平たく言うと「ケチ」な私は、すかさず、それを手に。
その肉は、割引になっていない品と比べると明らかに色あせ、ドリップも多めに流出。
しかし、私は、「今日中に食べればいいんだろ?」「今夜は、これで一杯をやろう」と、冴えない見た目は気にせずカゴに入れた。
家に帰り、風呂に入ったりして、一通りの用を済ませ、肉のパックを開封。
すると、予期せぬ事態が・・・
異臭には慣れているはずの私でも動揺するくらいの、思いもしない異臭が鼻を突いてきたのだ。
それは硫黄のようなニオイで、「わずかに臭う」といったレベルではなく、ハッキリと感じられる濃度。
そう、その鶏肉は、腐りはじめていたわけ。
店側に悪意はなかったはずだから、「だまされた!」とまでは思わなかったけど、「勘弁してくれよぉ・・・」と、トホホな気分に。
さりとて、嘆いてばかりいても仕方がない。
私は、この肉をどうするか思案。
もう風呂にも入ってしまったし、片道数分の距離とはいえ、返品しに行くのは恐ろしく面倒臭い。
かと言って、そのまま捨ててしまうのも、極めて惜しいことだった。
元来、食べ物を粗末にするのが大嫌いなうえ、賞味期限や消費期限に無頓着な私は、「火を通せば食べられるかな?」「塩味を濃くすれば大丈夫かな?」等と、わけのわからないことを考えた。
しかし、加熱したところで鮮度が戻るわけはなく、また、塩をしたところで保存性が回復するわけでもない。そんなこと誰でもわかること。
また、明らかに腐っているわけだから、「もったいないから」と無理して食べて、その後、どうなるかは容易に想像できる。
嘔吐・下痢・腹痛、場合よっては仕事に行けなくなるかも。
結果的に無事であったとしても、食後しばらくはヒヤヒヤしながら過ごすことになるに決まっている。
ロシアンルーレットをやるようなもので、そこまでして食べるメリットはない。
で、相当悩んだ結果、泣く泣く廃棄した。
そしてまた、つい一か月くらい前、同じスーパーでのこと。
よく食べる安い冷蔵餃子を買うべく、いつもの陳列棚へ。
すると、その中の一パックに“二割引”のシールが。
それに気づいた私は、例によって、手に取った。
見ると、消費期限は翌日。
「同じ物なら安い方がいい」と、迷わず、それをカゴに入れた。
その後、私は、いつも買う商品を一通りカゴに入れ、レジを通過。
そして、詰め替えカウンターへ移り、商品をカゴからマイバッグへ移し替え。
その餃子を手にしたとき、ある異変が目に飛び込んできた。
それは、ラップ越しの餃子に浮かぶ緑の点々。
よくみると、それは一か所や二か所ではなく、結構な広範囲に。
「カビ!」とわかった私は、すぐレジに戻り、モノを見せながら店員に説明。
すると、状況を飲み込んだ店員は、売り場へダッシュ。
新しい商品を持ってきてくれ、割引シールが貼られていないのに、「差額は結構ですから」と、そのまま私に持たせてくれた。
“わけあり”だから割引シールが貼られているのは百も承知。
こういうことが起こると、いちいちSNSにアップするのが今流の“正義”なのかもしれないけど、私は、SNSの類は一切やらないし、もともと、そんな“善人”でもない。
また、いちいちクレームをつけるのは私の主義ではないので、一つも文句は言わなかった。
あと、地の利もあるので、今後も、このスーパーは利用するつもり。
ただ、割引で得しても、身体を壊してしまったら大損。
「この店では、パッケージの賞味・消費期限はアテにしない方がいいな・・・」ということは学習したので、よくよく品定めをしたうえでの買い物を心掛けようと思っている。
訪れたのは、郊外に建つアパートの一室。
軽量鉄骨構造で、古いながらもシッカリした建物。
間取りは1DK。
ごく一般的な建物だったが、そこで起こったことは一般に馴染まないこと。
そこで暮らしていた中年男性が自殺してしまったのだ。
依頼してきたのは、このアパート管理する不動産会社。
現場にきた担当者は、人が亡くなった現場に関わるのは苦手なよう(得意な人はいないか・・・)。
ましてや、それが自殺現場となると、本当にイヤなよう。
私は、神経が完全に麻痺しているので何ともないのだが、フツーの人にとって“自殺現場”というものは、気持ちのいいものではないことは察しがつく。
しかし、選り好みで仕事はできないし、会社組織で動いている以上、好き嫌いは言っていられない。
担当者は、罰ゲームでもやらされているかのような嫌悪感を滲ませながら玄関の鍵を開けた。
部屋は、故人が生活していたときのまま。
“中年男性の一人暮らし”にしては、きれい過ぎるくらい。
また、発見は早かったそうで、遺体による汚染や異臭も皆無。
特別な霊感でもあれば別だろうが、何の説明もなく そこで起こったことを察するのは不可能なくらい平和な状態だった。
ただ、台所は、フツーの家とは異なる様相。
「あるべきもの」というか、本来なら、どこの家にもあるものがない。
冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、ガスコンロをはじめ、食器棚もなし。
どこからか越してきたのなら、TV・冷蔵庫・洗濯機などは、以前から使っているものがあるはず。
にも関わらず、それら生活必需品の姿はなかった。
その理由は一体・・・
「引っ越しを機に新調するつもりだった」とか、「前は食事付の社員寮に入っていた」とか。
社員寮に入っていたと仮定すると、故人は、何らかの事情が発生して、そこを出なければならなくなったのか。
とは言え、このアパートに入居できたということは、無職・無収入ではなかったはず。
転職を機に越してきたのかもしれなかったが、正規社員ではなくなり、契約社員とか、業務委託契約になったりした可能性もあった。
同一企業・同一業務における業務委託契約への変更は、従来の雇用契約と大差ないように思われがちだが、事実上は“体のいいリストラ”。
個人事業主となるわけで、これまで身を守ってくれていた労働基準法や会社の処遇を失い、仕事がハードになる反面、収入は不安定になりやすい。
極端な言い方をすれば、日雇労働者みたいな境遇に陥ってしまう可能性もある。
決めつけたような言い方になるけど、そんな未来に、「希望を持て」と言う方が無理。
部屋には、社名・氏名・血液型が記された作業用ヘルメットと汚れた作業服が。
無造作に転がるヘルメットと無造作に脱ぎ捨てられた作業服は、故人の心情を代弁しているようにも見えた。
どちらにしろ、冷蔵庫や洗濯機がないと不便な日常生活を送らなければならないことは目に見えているわけで、買い替えるつもりがあるなら、とっくに用意していたはず。
また、調理器具・食器類くらいはあってもいいはず。
しかし、割箸はあったものの、鍋やフライパン等の調理器具、皿やコップ等の食器類はなし。
食品も同様。
「食べる」ということは、生きることに直結した生き物の本能的な欲であり、命を維持するための本能的な営みなのに、カップ麺もレトルト食品も缶詰も、米や調味料類も一切なかった。
口に入れるもので置いてあったのは、四合瓶の泡盛が一本だけ。
言うまでもなく、そのアルコール度数はかなりのもの。
その泡盛、蓋は開けっぱなしで中身も空。
コップもない中でラッパ飲みしたのか・・・
“別れの盃”なんてつもりはなかっただろうけど・・・
下戸の故人が、決行を前に一気飲みしたのか・・・
到底、故人の想いを知ることはできなかったが、
「ここに越してきた端から、この世に長居するつもりはなかったのかな・・・」
「仕事も生活も、過去を悔やむのも未来を憂うのも、何もかもイヤになっちゃったのかな・・・」
あくまで、物見高い輩の野次馬根性、下衆の勘繰り、個人的な推察の域を越えないけど、自殺という現実を知っていた私の頭には、そういった向きの考えばかりが過っていき、重苦しい切なさが覆いかぶさってきた。
室内の調査を終え、私は、外で待つ担当者のもとへ。
担当者は、入室前に渡した私の名刺をマジマジ見つめながら、
「この仕事は、もう長いんですか?」
と、何かに同情するかのような暗い表情でそう訊いてきた。
キャリアを訊いてくる理由の一つは、「経験が豊富かどうかを確認することによって、その人物・会社・仕事の信頼度が計る」というものだろう。
決して珍しい質問ではないから、そういうときは、決まって応えるセリフがある。
「残念ながら、長くやってます・・・」
実際、ウソではないし、そう言って他人事みたいに笑うと、苦笑いながら相手も笑みを浮かべてくれ場が和む。
で、その後のコミュニケーションがうまくとれるようになるのである。
そんな質問をしてくる他の理由として、「この人は、なんでそんな仕事をしてるんだろう・・・」といった好奇心もなくはないだろう。
そういうことは、言葉にでなくても、肌で感じるもの。
実際、これまで出会ってきた中で、私のことを“わけあり”と思った人な少なくないはず。
また、私の仕事があまりに“珍業”なため我慢できなかったのか、その類の疑問をダイレクトにぶつけてきた人もいる。
ただ、一部の法人客を除き、当該の仕事が終われば、その内のほとんどの人とは縁がなくなるわけだから、余程の無礼がないかぎり、気を悪くするようなことはない。
“わけあり”な人間であることは間違いのない事実だし。
この仕事に就いたキッカケ・動機については、十数年前、このブログを書き始めた頃、「死体と向き合う」という表題で二編書いた憶えがある。
若かった、浅はかだった、就業当時、二十三。
著しい不幸感・絶望感に苛まれていた私は、「他人の不幸を見てやろう!」「その先は、どうなったってかまわない!」と自暴自棄になっていた。
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、あれから三十年、よくもまぁ、ここまでやってきたものだ。
思い返せば、食っていくために必要だった。
言い換えれば、死なないために必死だった。
それでも尚、この人間は惨めなまま。
ただ、ポツンと生きている。
死人のように、ただ生きている。
何事も“始まり”があれば“終わり”がある。
いつ、どういうカタチで終わりがくるのかわからないけど、“終わり”は必ずくる。
それまでは、やり続けるしかない。
しかし、やるからには、「食うため」以外の“わけ”がほしい。
ただ“食うため”だけに時間を浪費し、ただ“食うため”だけに身体を酷使し、ただ“食うため”にだけに精神を削り、いつの間にか歳だけとっていく・・・
そんな生き方は、ホトホト疲れた。本当につまらない。
何か、「食うため」以外の働き甲斐がほしい。
苦労して生きるのだから、少しくらい生き甲斐がほしい。
「人助け?」「社会貢献?」「使命?」
残念ながら、その類は、私の生き甲斐にはならない。
「金?」「物?」「名誉?」
少しは響くものがあるけど、それはそれで虚し過ぎる。
結局、生き甲斐は見つけられずじまい・・・
悲しいかな、生き甲斐を探し続けて終わる人生のような気がする。
生まれてきたことには“わけ”があるはず。
こうして生かされていることにも、
そして、死んでいくことにも、
人知を超えたところに“わけ”がある。
例え、その意味が見つけられなくても、そこに“わけ”があることを知らなければならない。
生きることの惨めさをやり過ごすために。
生きることの虚しさを忘れるために。
生きることの苦しさに負けないために。