過去ログの中からエッセイを集めました。
彼は少年飛行兵だった。
1945年夏、15歳になるはずの8月3日を
迎えることはないと思っていた。
大分県の飛行場にいた。
戦闘機はなかった。ただの練習機しかなかった。
特攻と言えば、かっこよく響くのかもしれないが、
爆弾も積んでいない。頑丈でもない。
飛ぶのがやっとだった。みすぼらしいものだ。
ダメージを与えられるはずがなかった。
戦艦を沈没させるどころか、風穴一つ開けられない。
かすり傷一つ、つけられない。
海を越えて辿りつけるかどうかすら怪しかった。
特攻という名の死に方を教わった。
7月。上官から「覚悟をしておけ」と言われた。
山梨県の甲府にいる母親に手紙を書いた。
遺書を書いた。遺書を書きなおした。
明日こそは出撃だと、覚悟した。
明日こそ死ぬのだと、覚悟した。
「覚悟をしておけ」
「明日には出撃命令が出るだろう」
同じ言葉を毎日聞かされた。
明日こそは、明日こそはと毎日覚悟した。
8月になり、
なれなかったはずの15歳になった。
8月6日の夜、上官から呼び出された。
重なっていく言葉は、
すべて、思ってもみなかったことだった。
広島が壊滅した・・・
この戦争は終わる・・・
日本は負ける・・・
甲府への片道分の旅費が渡された。
ヒロシマを回避するために大分から船で四国へ渡り、
大都市を避けて甲府まで行けと言われた。
「なにがなんでも生きろ」
最後の命令だった。
日本の未来を頼む・・・
1945年夏、
上官がいつその判断をしたのかは、わからない。
いつから出撃命令が出されていなかったのか、覚えていない。
いつの間にか少年達の旅費が用意されていた。
・・・未来への旅費。
8月7日・・・日本中は混乱していた。
情報は錯綜していた。人々は狂乱していた。
無我夢中で、母のもとへ向かった。
数日後、日本は降伏した。
翌年。彼は中国にいた。
各都市で街の復興に携わり、
中国政府から表彰されるほどになった。
18歳。東京の大学に進学した。
授業を休んでは、仕事に明け暮れていた。
街は見る見るうちに発展していった。
東京オリンピックは、再生の象徴だった。
かっこいい戦闘機が、空に五輪のマークを描いた。
気がつくと晩婚と言われる歳になってしまっていた。
生きろと命令を受けてから数十年後の8月6日、
娘の私が生まれた。
集団的自衛権とか、騒がれているけれど、
いざという時に冷静な判断ができる人間であれと思う。
それが命令違反であったとしても、自分を貫けと思う。
自分が間違っていないと信じるなら。
人として、何が一番大事なのかを真っ先に考えたいと思う。
未来のために。。。
ボイストレーナーをする時に、
下記の4項目について、理解度を深めていこうかなと
今更ながら思いました。
今まで漠然とやってきたけれど、
明確なゴールがあった方がいいかなーと。
① 姿勢
② 響き
③ 呼吸
④ 曲の理解
語学学習に必要な4項目(話す・聞く・書く・読む)を
参考にしました。
身体が楽器として機能できる状態にあって、
響きがちゃんとあって、
呼吸がちゃんとできていれば、
声が出せると思うし、
曲の理解があれば、
音楽になると思うんですよね。
具体的に何をどうするのかは、
レッスンでやりましょう♪