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好日1 絶対への入口

2007年03月01日 01時00分00秒 | 好日1~5

 ぼくは絶対への入口を探していた。
 ベルナール・アンリ・レヴィが来日し、その講演会があるということで、期待は大きかったので、お茶の水の日仏学院には一時間も前に着いたのだが、講演開始はさらに予定より一時間も遅れることを知らされたのであった。
 そこで仕方なく、日仏学院の廊下をぶらぶらしたり、中庭を眺めたりして時間をつぶしていた。建物や中庭はまるでパリの一角をそのまま切り取って持ってきたような印象があった。内部の見物にも飽きた頃に、休憩のコーナーにビデオ映画が上映されていることに気付き、なにげなく見始めたのだが、講演を聞きにきた事も忘れてしまうほど、その中身に引き込まれてしまったのである。
 映画の内容は、ブルジョワの青年が、夜のパリの中を恋人を必死になって探し回るだけものなのであるが、妙にリアリティがあって、きっと何かの文学作品の支えがあると思われた。エンドタイトルで、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の「スワンの恋」を脚色したものと知ったのであった。
 ベルナール・アンリ・レヴィの講演は「哲学と文学のあいだ」というテーマで行われた。これほどの知性、これほどの情熱が、一回の講演に注がれた例を、ぼくは他に知らない。公演が終わってから、彼の著作『人間の顔をした野蛮』を読んだけれども、あの独特の緊迫した語り口は、翻訳ではほんの少ししか伝わってこない。いずれにせよ、哲学は、一回性の演劇ごときものとして、再現不可能な、ただ記憶の中にだけその本質をさらけだすものとして、私の前に、その日登場したのであった。
 ところで、プルーストの『失われた時を求めて』であるが、映画の「スワンの恋」をその日見たことは、かえってプルーストの世界への入り口を遠ざける原因になってしまった。というのも、映画の「スワンの恋」は、原作のエッセンスを、一夜の緊迫した劇に構成し直しており、その映画に感動してプルーストを手にしたものの、原作の「スワンの恋」は数年の長い事件であって、その事件や場面にはしばしば哲学的なコメントがはさまって、息の長い、奥行きの深い、映画とは対照的なリズムを持っているのであった。映画と似た感動を期待していたぼくは、すっかり肩透かしを食わされたのであるが、二十世紀最大の古典への入口は、やはりあの日に開かれていたのだと思わざるを得ない。
 これほどまでの遠回りをした後で、つい最近、鈴木道彦氏訳の「スワンの恋」を読み、映画の「スワンの恋」とは対照的な、文学作品としての「スワンの恋」の楽しさ・面白さ・奥深さを知ったばかりなのである。今となっては『失われた時を求めて』ほどの傑作を、ぼくから遠ざけておいてくれた機縁を、感謝したい気持ちでいっぱいなのである。
 『失われた時を求めて』という作品は、絶対への入口を探し求めた作家プルーストの創造的自伝である。無名の語り手は、永遠を魂の中に確実につかみとり、作品を書くことを決意して、その物語は終わるのであるけれども、ぼくもまた絶対への入口を求めて、お茶の水駅に降り立った十七年前の記憶が、いまや鮮明に蘇ってくるのである。

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ベルナール・アンリ・レヴィ


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