好日2 「絶対との遭遇」
夏にはいつも帰省することにしている。福井県の若狭高浜。そこがぼくの故郷だ。家族と日本海側最大の海水浴場がそこには待っている。夏は、それゆえぼくのイメージでは、海と田舎と家族の思い出にいつもつながっている。
今年の夏は、鈴木道彦訳・プルーストの『失われた時を求めて』の第一巻を携えて帰郷した。すでに全巻読み了えたのであるが、もういちど冒頭の第一巻・第一部「コンブレー」の部分を再読したいと思ったのだ。
大きな物語が終わった後の余韻のような趣が「コンブレー」の章にはある。『失われた時を求めて』という物語は終わりから始まっている。全体を直観できる人のみが、じつは「コンブレー」の最良の読者であり、まだ物語の全体を知らない人には非常にとっつきにくいわかりにくさが秘められている。プルーストの無意識がそのまま無造作に投げ出されているかのごとき印象。
例えばこういう一節がある。
「光の感覚はまるで夏の室内楽のように、ハエどもが目の前で奏でるちょっとした音楽会によっても与えられる。人間の音楽にも、たまたま美しい季節に耳にしたために、次に聞くときこの季節を思い出させる旋律があるが、ハエの音楽はそのような仕方で光の感覚を喚起するのではない。もっと必然的な絆で夏と一体になっているのだ。よく晴れた日々に生まれ、そのような日々とともにでなければ蘇生することのない音楽、そのような日々の本質をいくぶんか内に潜めているいるこの音楽は、ただ単に私たちの記憶のなかに夏の晴れた日々のイメージを呼びさますだけではない、その日々がたち戻ってきたこと、それが実際に目の前にあり、私たちをとりまき、直接近づけるものになっていることを保証しているのである」
なんと美しい文章であることか! プルーストの魂の奥底からわき上がる透明な泉の水のような美しさに充ち満ちた文章。夢みる人プルーストには、ハエの音楽がただちに無意識の記憶を呼びさます。プルーストはその記憶と一体になった音楽によって包まれてしまっている。なんと無防備な生活者であることか、プルーストは。しかし危険なまでの無防備さで夢みつづけたプルーストの生涯は、一冊の書物の中に、宇宙に匹敵するほど宏大な世界を建立する奇跡を実現したのである。
「自分の存在を生活する代わりにこれを夢みる人間は、必ずや絶えずその過去の歴史の無数の内容を目前に開展してゐることであろう」(高橋里美訳・ベルグソン『物質と記憶』)
ベルグソンが理論によって予告したことを、プルーストは芸術作品の完成の中において実現した。
プルーストの後にもなお文学は存続できるであろうか。できるとすればどのような方法によって。どんな内容によって。ロープ際に追い詰められたボクサーのような気分を携えて、ぼくは故郷から東京に舞い戻ってきた。平成十四年の秋、それでもぼくはまだ生きていかねばならない。自分自身を克服する旅はまだ続く。
宇宙は豊かである。貧しいのはただ自分の心だけだ。プルーストはそのことを万人に告げた。
いまはただプルーストへの敬意をここに記すのみ。
若狭高浜:日本海側最大の海水浴場
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