二十歳の秋に橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を読んだ。翌春に橋川文三ゼミに入室した私は、ゼミで取り上げる最初のテキストにこの書物を所望した。
「最初のテキストは何であるべきか。橋川文三の他の本は自分で読めば全部わかる。しかし『批判序説』だけは自分だけで読んでも分からない謎の部分が残る。この不可思議をそのままにしておいて橋川文三ゼミは始められない。『批判序説』に関する認識を共有することから我々はスタートしなければならない」。
私は当時このような演説をぶった。いまから考えると気恥ずかしい発言ではある。しかしこれが二十歳の驕りと真摯さというものであろう。反省すべき点は何もない。このような経緯で翌週に先生自身に『批判序説』について語ってもらえることになった。
話の内容は、終戦直後から、編集者生活を経て、『批判序説』を同人誌に掲載するまでの生活史が主であった。橋川さんは編集者生活の中から丸山真男に出会う。丸山真男からカール・シュミットの『政治的ロマン主義』の原書を借り、ドイツ語の辞書を友人から借りて訳しながら、「これで日本浪曼派について何か書けると思った」と橋川さんは述べられた。
当時橋川さんは、結核を病んで、病院で療養中であり、職もなく、生活は窮迫を極めていた。「本は生活費のために売ったので、自分の本は一冊も持っていなかった」との発言には驚愕した。これほどの学者が三十代半ばを過ぎて自分の本が一冊もない生活を想像するのは難しかった。しかし、そのような環境の中で書かれた書物であるということを知って、『批判序説』の謎の一端が垣間見えたのは確かである。
まこと興味深い話であるが、一回切りの約束の『批判序説』講義のゼミの終了時間は刻々と迫ってきている。本文には入らないのだろうか。それはそれでもいいと思った瞬間、先生はゼミ生に用意してきた『批判序説』の「あとがき」を開くよう指示された。そして以下の部分を読んで下さった。
「そのようなものとしての日本ロマン派は、私たちにまず何を表象させるのか? 私の体験に限っていえば、それは、
命の、全けむ人は、畳菰、平群の山の
隠白檮が葉を、鬘華に挿せ、その子
というパセティックな感情の追憶にほかならない。それは、私たちが、ひたすらに「死」を思った時代の感情として、そのまま日本ロマン派のイメージを要約している。私の個人的な追懐でいえば、昭和十八年秋「学徒出陣」の臨時徴兵検査のために中国の郷里に帰る途中、奈良から法隆寺へ、それから平群の田舎道を生駒へと抜けたとき、私はただ、平群という名のひびきと、その地の「くまがし」のおもかげに心をひかれたのであった。ともあれ、そのような情緒的感動の発源地が、当時、私たちの多くにとって、日本ロマン派の名で呼ばれたのである」(橋川文三『日本浪曼派批判序説』)
橋川さんは、日本武尊の歌を板書され、若干の語句の注釈を施された。歌の解釈はされなかった。しかし我々はその時、電撃のように一瞬の内にことごとくを理解したのだった。日本武尊とはだれなのか、日本浪曼派とは何か、そして『批判序説』とはどのような書物であるのかを。すべてを見通す詩人にして学者である人がその日その時そこにいた。それが橋川文三であった。
★ヤマトタケルノミコトか? それともニジンスキーか? ★
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