古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第四章 極月改書・その一

2011年06月08日 20時48分41秒 | 古文書の初歩

嘉永七年 甲寅 極月改書

解読

甲寅 嘉永七年極月改書

 文政十二年巳丑十月四日夜九ツ時ヨリ当所出火ニ而

 中之町廣小路ヨリ川口廣小路迄壹軒も不残

 焼失致尤火元ハ阿弥陀寺本堂裏ヨリ出ル

 翌天保元年庚寅閏三月晦日八ツ時ヨリ出火

読み方

甲寅(きのえとら)嘉永(かえい)七年極月(ごくげつ)改め書き

文政十二年、己丑(つちのとうし)十月四日夜九つ(ここのつ)時より当所出火にて

中の町広小路より、川口広小路まで一軒も残らず

焼失致す。尤も、火元は阿弥陀寺本堂裏より出る。

翌天保(てんぽう)元年庚寅(かのえとら)閏(うるう)三月晦日(みそか)八つ時より出火

解説 甲寅(きのえとら)は干支(えと)の組み合わせでその年を表す暦(こよみ)で、十干(じっかん)と十二支の組み合わせにより、六十年に一度の年を特定します。現在では考えられませんが、昔は時の流れが遅く、六十年に一度の事件でも干支で表す事が多かったのです。たとえば、「壬申の乱」は西暦六七二年、「戊辰戦争」は一八六八年、「辛亥革命」は一九一一年など重要な事件等はその年の干支で呼ぶ例が沢山有ります。 江戸時代の古文書の日付も、普通は年号(たとえば嘉永七年)の他に十二支(ね、うし、とら、う、)のみを附けるのが一般的ですが、この様に更に丁寧に、十干をも付けて表記した年号の記載もあります。 勿論この干支を付けなくても、嘉永七年のみでも西暦一八五四年と特定出来ます。 極月・・・十二月の事。

「改書」・・・あらためがき、再調査して書いた文書。 「文政十二年」・・・1829年。  「夜九ツ時」・・・「九ツ」は深夜十二時か、真昼の十二時で一日二回あります。  「焼失致」・・・文が終わる場合は、普通、「焼失致候」と来る筈ですが、この場合は候がないので、「致す」と読みました。或いは「致し、尤も」と続くのかも判りません。 「閏三月」・・・太陰暦で12ヶ月の外に加えた月。三年目か四年目に一度閏月がありました。 「晦日(みそか)」・・・月末日。「三十日」を三=み、十=そ、日=か、と読んだもの。大晦日は年末日のこと。「八つ時」・・・八つ時は一日二回あり、午前二時頃か午後二時ころか判らない。

十干は、甲(キノエ)、乙(キノト)、丙(ヒノエ)、丁(ヒノト)、戊(ツチノエ)、己(ツチノト)、庚(カノエ)、辛(カノト)、壬(ミズノエ)、癸(ミズノト)。

十二支は、子(ネ)、丑(ウシ)、寅(トラ)、卯(ウ)、辰(タツ)、巳(ミ)、午(ウマ)、未(ヒツジ)、 申(サル)、酉(トリ)、戌(イヌ)、亥(イ)。十干と十二支の組み合わせは、60通り有り、自分の生まれた年から60年経ったら、再び生まれた干支(えと)に還るので、六十才の事を還暦と言います。(老婆心までに)