潮御崎神社古記録まとめ(六)三ヶ浦申入に付き大庄屋宛神主口上
十二、寛永14年頃、潮が下り潮になった時、印南・田辺・芳養浦等から漁船がたくさん当地へ出漁して来て稼いだ時、カツオの餌となるイワシの群れるゑど場(注1)の件について、言い争い、喧嘩となりました。其の節、下田原から見老津までの庄屋衆が当御崎神社に集まり、相談して訴状を作成し、和歌山へ直接訴え出て当方の願いの通りに裁定されました。其の時以来、見老津から下田原までの浦々を一つの組合と決めて、潮御崎神社に於いて潮祭りをして参りました。(注2)
十三の一、以上、三ヶ浦から申して来たのは、「我々が御崎神社の事はすべてお世話致しますので、正月のお的の祝いを主催させてください。」との願い出でした。私の先祖の返事で、「お的は氏子の祝いの儀式であるから、その様な先例に無い事は罷り成らん。」と言いましたら、尚しつこく色々と申して来るので、「そんなに言うなら、正月18日は「納めの的」と言って、神主一人でお的の祝いをして、的を納めるので、其の時参拝する様に。」と伝えましたら、18日に来てお的を拝み『おがみ』始めました。お神酒『おみき』、盃『さかずき』を持参して、私(神主)宅の面(表)座敷でお祝いをしたいと言いましたが、とてもその様な事は出来ないと伝えました。それでも尚お祝いをしたいと言うので、それなら台所の勝手口でお酒を始め戻す(?)様にと申し渡しましたら、以後毎年その通りに行って来ました。
(注1)餌所『えさどころ』を略して、「えどこ」。更に餌所の有る場所を「ゑど場」と言う。
(注2)十八ヶ浦潮岬会合の始まり。