2025年度版 渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)
『泡宇宙の蛙』(1999年)【無限振動体】P9~
参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
◆『泡宇宙の蛙』の歌集の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介しておきます。(鹿取)
『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いました。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。
3 ジョン・ケージ『四分三十三秒』のすずしさよ茸すぱすぱと伸ぶ
(当日意見)
★動画でこの音楽を聴いてみました。このジョン・ケージは茸が好きなんだそうです。作者は知っていて引っ張ってこられたんですね。この無音は東洋の思想や鈴木大拙の禅などの影響とも言われていますし、エリック・サティの音楽を茸に例えたとかも言われています。作者はこの無音の音楽をすずしさと言われた。それとすぱすぱと伸びるあたりがよく分からないのですが。まあ音のない所で伸びていくということでしょうが。(A・Y)
(まとめ)
「すずしさよ」で場面は切れているのだろう。4句めが句割れになっていて「すずしさよ」までで無音の音楽を提示し、以下で茸の伸びる場面に飛ぶ。「すぱすぱ」という小気味よい擬態語が「すずしさよ」とSの音でさりげなく繋がっている。さらりと詠っているようでとても技巧的な歌だ。ところで、すずしいというのは松男さんの愛用語の一つで、時々出てきて、独特の思い入れがあるようだ。A・Yさんが言われたように、ジョン・ケージは前衛的な作曲家であり詩人であり、よく知られた茸研究者である。自然の音に託すというジョン・ケージの音楽の思想と自然界で元気いっぱいきのこが伸びる情景とは切れているようで繋がっている。松男さんも茸狩りが好きだそうだが、楽しい歌である。
化石を詠った「すずしい」の歌が『泡宇宙の蛙』の中にあって、このすぐ後に鑑賞する予定だ。『寒気氾濫』の中にも、例えばこんな「すずしい」の歌があった。
欠陥とみなされているわが黙も夕べは河豚のようにすずしい
『寒気氾濫』
透りたる尾鰭を見れば永遠はすずしそうなり化石の石斑魚(うぐい)
『泡宇宙の蛙』
これは余談だが、作曲家、一柳慧が戦後アメリカでジョン・ケージの自宅に招かれて行ったところ、考え方や行動が影響を受けるからと家具がない家で椅子もなく床に座って話をしたと発言している。(朝日新聞「人生の贈りもの」2017・6・20夕刊)(鹿取)