カトマンズの通り
公衆の洗い場なのであろうか、体や髪を洗う人たち
馬場あき子の外国詠 20(2009年8月実施)
【牛】『ゆふがほの家』(2006年刊)94頁~
参加者:N・I、Y・I、泉可奈、S・S、T・S、曽我亮子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
161 街の角曲がれば大き牛の尻ありてわが顔圧倒されぬ
(レポート)
ヒンドウ教では牛は神聖な動物として尊敬されている。牛が町中を自由に動き回っている。先生は町の小路で、牛の後ろ姿・お尻に出会われ、ぎょっとされた状況がよく表わされている。(T・H)
(当日意見)
★顔と言っているところがよい。牛の尻と顔でお互いの高さが出ている。(慧子)
(まとめ)
街角の出会いがしらに、車ならぬ牛の尻がぬっと目の前に現れたことのおもしろさ。(鹿取)
162 牛の尻ゆつたゆつたと行くあとに優雅なるわがバスは従ふ
(レポート)
バスは警笛も鳴らさず、牛のゆっくりとした歩みに従って、ゆるゆると動いている。郷に入れば郷に従え、じっとがまんの時である。(T・H)
(意見)
★「ゆつた」「ゆつた」「優雅」とユ音が続いている。(慧子)
(まとめ)
牛を傷つけると刑罰を受ける。ゆえに車は牛に遠慮して走るわけだが、旅行者としては珍しい風俗ゆえ、牛の後をのろのろと進んでゆくバスを楽しんでいる。少なくとも同行した私はいらいらすることもなかった。この歌も「じっと我慢」の心境ではないのだろう。「優雅なる」はやや皮肉を効かせているが、だからといっていらだっているのではない。慧子さんの発言にみられるように、「ゆつた」「ゆつた」はいかにものんびりとした牛の描写であり、ユ音の連続はゆったりとした穏やかな心境を伝えている。そういえば、ネパールで真っ先に覚えた言葉が「ビスタリ、ビスタリ(ゆっくり、ゆっくり)」であった。(鹿取)