※ 渡辺松男さんが、歌集「牧野植物園」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されました。
おめでとうございます。
以下のサイトに受賞理由が掲載されていますので、
興味のある方はぜひご覧になってください。 https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_02.pdf
最近、このブログでは馬場あき子の外国詠を続けていましたが、
渡辺松男の『寒気氾濫』の鑑賞を交互に入れてゆくことにしました。
どうぞよろしくお願いします。
2023年度版 渡辺松男研究2(13年2月実施)
【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
後日意見:石井彩子
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
※「松男研究1」は『寒気氾濫』を対象としなかったため、
従来の「松男研究2」においては『寒気氾濫』の一首目が通し番号
「9」になっていました。紛らわしいので、今回より『寒気氾濫』の
一首目を「1」として、 以下通し番号を振っていきます。
1 八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチェひげ濃かりけり
(レポート抄)
ニーチェの肖像写真には彼の思想の一端を垣間見ることができる。写真がまだ安価とはいえない時代に、髭をはやし始めた大学時代以降、様々なポーズで頻繁に写真を撮っている。髭の濃さは半端ではなく、鬱蒼として暑苦しい攻撃的な口鬚。髪も眉も口髭も生来やわらかく明るい褐色であり、肉体も繊細でしなやかで女性的な容姿なのに、本質を過剰に埋め合わせるような鬚である。八月という季節もその過剰な髭にふさわしい。作者は、ニーチェの相矛盾した過剰な面に共鳴し、自己に重ね合わせて、第一歌集の冒頭歌として配置したのではないか。なお、ニーチェの精神錯乱と進行生の麻痺の原因については、二十世紀前半までは黴毒説が有力だったが、現在は支持されていない。(鈴木)
(後日意見)(15年4月)
キリスト教的道徳を批判し「神は死んだ」と語ったニーチェは、それまでの価値観を覆したという以上に、スキャンダラスであった。それは哲学に、ニーチェという生身の人間を登場させたことである。これまでの著作は個人的要素を排除し、客観的な表現をすることで、哲学の学問が成立していたが、ニーチェは過剰なまで自分の肉声を響きわたらせた。『ツァラトゥストラ』の主人公はニーチェその人であり、語り口は不気味で、挑発的である。
歌は、ふつふつというオノマトペによって、黴毒の病原菌(スピロヘータ)が増殖して、体ばかりではなく、精神を蝕んでいく様子を伝えてリアルである。8月というのは、ニーチェが亡くなった月であるが、病原菌や髭が夏草のように繁茂し、増殖してゆくような生々しい季節でもある。(石井)
(当日意見)
★第一歌集の冒頭にニーチェを置いているのはそれだけ思い入れが強い
からだろう。(ニーチェの髭の濃い写真の本を会員に示して)渡辺さ
んは哲学科だから、ニーチェは身体にしみこんでいるのだろう。私は
高校時代にこの本(高橋健二・秋山英夫訳『こうツァラツストラは語
った』……以後『ツァラツストラ』と略記)を読んでいるが、最初は
詩として読んで陶酔したり、永劫回帰をリアルに怖がって 震え上が
ったりした。それ以後もただ読み流してきただけなので渡辺さんのよ
うには身に付いていない。渡辺さんの歌を読んでいると、今に至るま
で、ああこれはニーチェだと思われる歌がたくさんある。(鹿取)
★渡辺さんが小さいときから考えてきたことと、ニーチェの言っている
ことが符合したのだろう。影響を受けたというよりも、自分の考えた
ことを歌にしていたら、ああニーチェも同じようなことを言っている
と発見したのではないか。だから、ニーチェとは別な視点がある。
(鈴木)
★もちろん渡辺さん自身の思索もすごい。またニーチェからだけではな
く様々な思想家や作家から影響を受けている。それらみんなひっくる
めてオリジナルなものになっている。(鹿取)
★「ふつふつと」というところが渡辺さん独特のとらえ方。生々しくと
らえている。(鈴木)
★ニーチェが爆発して狂気に至る内面を「ふつふつと」で表現している。
ニーチェの圧倒的な力というものを表している。(鹿取)
★ニーチェにかなり自分を重ねているのだろう。精神を病んだところも
ニーチェと渡辺さんは共通している。(鈴木)
★大井学さんの評論に「ニーチェとの対話―渡辺松男」(「かりん」一
九九八年八月号)があります。鈴木さん同様渡辺さんの歌とニーチェ
を関連させて読んでいます。また、坂井修一さんの第一歌集『ラビュ
リントスの日々』の冒頭歌は「雪でみがく窓 その部屋のみどりから
イエスは離(さか)りニーチェは離る」です。かりんを代表する二人
の男性歌人が二人ながらに第一歌集の冒頭歌にニーチェを詠っている
のはとっても興味深いことです。渡辺さんのニーチェは生々しく自己
に迫っていて、坂井さんは意志的にニーチェを遠ざけている感じがし
ます。ふたりの生きる姿勢の違いが分かって面白いと思いました。
(鹿取)
おめでとうございます。
以下のサイトに受賞理由が掲載されていますので、
興味のある方はぜひご覧になってください。 https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/93842101_02.pdf
最近、このブログでは馬場あき子の外国詠を続けていましたが、
渡辺松男の『寒気氾濫』の鑑賞を交互に入れてゆくことにしました。
どうぞよろしくお願いします。
2023年度版 渡辺松男研究2(13年2月実施)
【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
後日意見:石井彩子
レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
※「松男研究1」は『寒気氾濫』を対象としなかったため、
従来の「松男研究2」においては『寒気氾濫』の一首目が通し番号
「9」になっていました。紛らわしいので、今回より『寒気氾濫』の
一首目を「1」として、 以下通し番号を振っていきます。
1 八月をふつふつと黴毒(ばいどく)のフリードリヒ・ニーチェひげ濃かりけり
(レポート抄)
ニーチェの肖像写真には彼の思想の一端を垣間見ることができる。写真がまだ安価とはいえない時代に、髭をはやし始めた大学時代以降、様々なポーズで頻繁に写真を撮っている。髭の濃さは半端ではなく、鬱蒼として暑苦しい攻撃的な口鬚。髪も眉も口髭も生来やわらかく明るい褐色であり、肉体も繊細でしなやかで女性的な容姿なのに、本質を過剰に埋め合わせるような鬚である。八月という季節もその過剰な髭にふさわしい。作者は、ニーチェの相矛盾した過剰な面に共鳴し、自己に重ね合わせて、第一歌集の冒頭歌として配置したのではないか。なお、ニーチェの精神錯乱と進行生の麻痺の原因については、二十世紀前半までは黴毒説が有力だったが、現在は支持されていない。(鈴木)
(後日意見)(15年4月)
キリスト教的道徳を批判し「神は死んだ」と語ったニーチェは、それまでの価値観を覆したという以上に、スキャンダラスであった。それは哲学に、ニーチェという生身の人間を登場させたことである。これまでの著作は個人的要素を排除し、客観的な表現をすることで、哲学の学問が成立していたが、ニーチェは過剰なまで自分の肉声を響きわたらせた。『ツァラトゥストラ』の主人公はニーチェその人であり、語り口は不気味で、挑発的である。
歌は、ふつふつというオノマトペによって、黴毒の病原菌(スピロヘータ)が増殖して、体ばかりではなく、精神を蝕んでいく様子を伝えてリアルである。8月というのは、ニーチェが亡くなった月であるが、病原菌や髭が夏草のように繁茂し、増殖してゆくような生々しい季節でもある。(石井)
(当日意見)
★第一歌集の冒頭にニーチェを置いているのはそれだけ思い入れが強い
からだろう。(ニーチェの髭の濃い写真の本を会員に示して)渡辺さ
んは哲学科だから、ニーチェは身体にしみこんでいるのだろう。私は
高校時代にこの本(高橋健二・秋山英夫訳『こうツァラツストラは語
った』……以後『ツァラツストラ』と略記)を読んでいるが、最初は
詩として読んで陶酔したり、永劫回帰をリアルに怖がって 震え上が
ったりした。それ以後もただ読み流してきただけなので渡辺さんのよ
うには身に付いていない。渡辺さんの歌を読んでいると、今に至るま
で、ああこれはニーチェだと思われる歌がたくさんある。(鹿取)
★渡辺さんが小さいときから考えてきたことと、ニーチェの言っている
ことが符合したのだろう。影響を受けたというよりも、自分の考えた
ことを歌にしていたら、ああニーチェも同じようなことを言っている
と発見したのではないか。だから、ニーチェとは別な視点がある。
(鈴木)
★もちろん渡辺さん自身の思索もすごい。またニーチェからだけではな
く様々な思想家や作家から影響を受けている。それらみんなひっくる
めてオリジナルなものになっている。(鹿取)
★「ふつふつと」というところが渡辺さん独特のとらえ方。生々しくと
らえている。(鈴木)
★ニーチェが爆発して狂気に至る内面を「ふつふつと」で表現している。
ニーチェの圧倒的な力というものを表している。(鹿取)
★ニーチェにかなり自分を重ねているのだろう。精神を病んだところも
ニーチェと渡辺さんは共通している。(鈴木)
★大井学さんの評論に「ニーチェとの対話―渡辺松男」(「かりん」一
九九八年八月号)があります。鈴木さん同様渡辺さんの歌とニーチェ
を関連させて読んでいます。また、坂井修一さんの第一歌集『ラビュ
リントスの日々』の冒頭歌は「雪でみがく窓 その部屋のみどりから
イエスは離(さか)りニーチェは離る」です。かりんを代表する二人
の男性歌人が二人ながらに第一歌集の冒頭歌にニーチェを詠っている
のはとっても興味深いことです。渡辺さんのニーチェは生々しく自己
に迫っていて、坂井さんは意志的にニーチェを遠ざけている感じがし
ます。ふたりの生きる姿勢の違いが分かって面白いと思いました。
(鹿取)
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