かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 164

2021-02-17 18:42:05 | 短歌の鑑賞
  ブログ版 渡辺松男研究 21 2014年10月 
【音符】『寒気氾濫』(1997年)70頁~
参加者:石井彩子、泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、N・F、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


164 黒き手帳日にいくたびも開かれて別のわたしが出這入りをする

       (レポート)
 この歌を、もし「わたし」を主格にすると、スケジュールに従ってその時々の役割をこなすため、予定や次第を書き込んだ黒き手帳を日にいくたびも開く、と一般的な詠み方になる。ところが、本歌では「黒き手帳」が主格になっている。そのために、手帳管理者の「わたし」のほかに、手帳を開いて覗きに来る「わたし」が生まれ、そのときどきの役割を担った個別の「わたし」が出這入りをするのである。主客を変えることによってこのように見え方が異なり、「わたし」の実感は、よりリアルなものとなっている。(鈴木)


     (意見)
★たぶん、渡辺さん的には複数の〈われ〉があって、ある時は欅にあるときは鳥になる。黒き手帳
 の中でもいろんな役割を自分が担うことになる。同じ手帳でもジャンルからきっていけばまった
 く違う自分というものがその中に存在する。だから開く度に同じ〈われ〉じゃなくて別の〈わ
れ〉が出たり入ったりする。そこが非常に哲学的な歌になっているのかなと。(N・F)
★低い次元で考えると個人のスケジュール帳には過去、未来、現在といろいろ書いてあるのですが、
 日に何度も開いてそれに対応した私が出入りをするということですよね。(石井)
★客にあう自分、デスクワークの自分、講演をする自分って別の顔をもっているので、日常的に読
 めば石井さんのように読めますよね。(鹿取)
★多重の、複数の私がいると考えていいんじゃないでしょうか。(石井)
★〈われ〉というのは規定できなくて、あそこに行く〈われ〉とここにいる〈われ〉は違って、そ
 のことを認識しているから、別の〈われ〉って強調されたのかなあ。(真帆)
★器用に何でもできる人はあまりこんなことは考えなくて、不器用だと自分の役割がはねかえって
 くる。私って一つだとは言えないので、私の本質なんかなくて関係性の中でだけ私はあるのかも
 しれない。渡辺さんは不器用だから、こういう歌ができるんじゃないか。(鈴木)


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