渡辺松男研究27(15年5月実施)
【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
参加者:石井彩子、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取未放
◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、塚本邦雄氏が絶賛された。
全ての歌に固有名詞が入っていて全て秀歌、「敵愾心を覚える」とスピーチされた。
220 無際なる体内の靄吐き出だす赭(あか)きジャン=ポール・サルトルの口
(レポート)
サルトル作『嘔吐』(1960年版 白井浩司訳)の主人公、ロカンタンはあらゆる場面で吐き気を催すのだが、ある日公園のベンチに座って、目の前のマロニエの木の根を見た時、激しい吐き気に襲われる、知識人ロカンタンはそれが無意味に、偶然そこにあるということには耐えられない、体内の靄を吐き出だすように、赭い舌をまくし立て、噤むことのない口は終始、空しい言葉を吐き続ける。「黒い爪」「煮られた革」「かび」「禿鷹の爪」「太い足」「アザラシの毛皮」などと、マロニエの木の根を言い換えてみる。このように体内から言葉を次々吐きだしても、永遠にマロニエの木の根そのものには近づけない。
「事物の多様性、その個別性は、一つの仮象、一つの漆に過ぎなかった。この漆が溶けてしまっ ていた。怪物じみた、柔らかくて無秩序な塊が、裸の、恐ろしい淫猥な裸形の塊が残ってい た」。P147
この「裸形の塊」が意味以前の偶然、そこに輪郭も個別性も喪失したマロニエの木の根である。人間存在もそうだ。存在の根拠がないまま、他のものとは関わりない無意味な(実存)存在であり、本質(意味や価値を付与されたもの)として生まれてきたのではない。ここから「実存は本質に先立つ」という有名な実存主義のテーゼが提唱された。
このようなサルトルの哲学は人間存在を認識する以上の答えは出してくれない、生きかたや、精神の深みなどは宗教や芸術などによって、はじめて得るものである、222番歌(ひんがしへひんがしへ犬(いぬ)の陰嚢(ふぐり)咲きひんがしへ行く良寛の足)の良寛は物質的には無一物に徹し、自然の山川草木を愛し、寺も妻子ももたなかった。作者は良寛のそのような生き方に共感し、サルトルを冷やかに見ているように思える。(石井)
(参考)(鹿取)
雪の樹を仰ぎおるとき口あけてみだらなりわがまっ赤な舌は『寒気氾濫』51頁
(当日意見)
★「無際なる体内の靄吐き出だす」のはサルトルだけでなく人間存在そのものではないかなあ。
私が参考に挙げた歌は雪の樹と対比させたまっ赤な舌を持つ〈われ〉を「みだらなり」と感
じています。だから私はサルトルを客観的に冷ややかに見ているというよりも、自分も含め
て突き放しているんだろうなと思います。人間を相対化しているのだと思いますが。(鹿取)
★サルトルは自然の有り様を言葉で説明しようとしました。良寛は自然と融け込むことに徹し
た人ですね。サルトルに赭き口という投げ出したようなうたい方をしていることからみて、
渡辺さんはサルトルを冷ややかに見ているのだと。渡辺さんはサルトルも含めて様々な人の
影響は受けているけれど、最終的には良寛の方に親和性を感じていると。(石井)
★時間経過の後では良寛に親和性を感じているとは私も思います。ただ、サルトルを批評的に
見ているならそこに同じ人間存在としての自分も含まれているということです。渡辺さんは
哲学科ですから当然サルトルは学んでいるわけですけど、思想的な影響関係とこの歌は切り
離して考えています。(鹿取)
(後日意見)
議論の時見落としていたが、『寒気氾濫』64頁に既に鑑賞を終えた次の歌がある。
ダンコウバイの黄葉の表裏陽のなかにサルトルも遠き過去となりたり
過去となったというからには、かなりの影響を受けたということだろう。けれどこの感慨にはいくらか過去に対する愛惜のようなものが滲んでいるように思われる。1966年、サルトルが来日し講演した時、高校生の私は聴講の応募葉書を出した記憶があるが、掲出歌はそういう類の講演か大学の講義の1コマの描写と読んでも面白い。むろん、作者の意図はサルトルという人間の総括であろう。『嘔吐』だけではなくサルトルの全体の著作活動や生涯を見渡して「無際なる体内の靄吐き出だす」イメージに集約しているのだろう。(鹿取)
【非想非非想】『寒気氾濫』(1997年)91頁~
参加者:石井彩子、泉真帆、かまくらうてな、M・K、崎尾廣子、M・S、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:石井 彩子 司会と記録:鹿取未放
◆「非想非非想」の一連は、『寒気氾濫』の出版記念会の折、塚本邦雄氏が絶賛された。
全ての歌に固有名詞が入っていて全て秀歌、「敵愾心を覚える」とスピーチされた。
220 無際なる体内の靄吐き出だす赭(あか)きジャン=ポール・サルトルの口
(レポート)
サルトル作『嘔吐』(1960年版 白井浩司訳)の主人公、ロカンタンはあらゆる場面で吐き気を催すのだが、ある日公園のベンチに座って、目の前のマロニエの木の根を見た時、激しい吐き気に襲われる、知識人ロカンタンはそれが無意味に、偶然そこにあるということには耐えられない、体内の靄を吐き出だすように、赭い舌をまくし立て、噤むことのない口は終始、空しい言葉を吐き続ける。「黒い爪」「煮られた革」「かび」「禿鷹の爪」「太い足」「アザラシの毛皮」などと、マロニエの木の根を言い換えてみる。このように体内から言葉を次々吐きだしても、永遠にマロニエの木の根そのものには近づけない。
「事物の多様性、その個別性は、一つの仮象、一つの漆に過ぎなかった。この漆が溶けてしまっ ていた。怪物じみた、柔らかくて無秩序な塊が、裸の、恐ろしい淫猥な裸形の塊が残ってい た」。P147
この「裸形の塊」が意味以前の偶然、そこに輪郭も個別性も喪失したマロニエの木の根である。人間存在もそうだ。存在の根拠がないまま、他のものとは関わりない無意味な(実存)存在であり、本質(意味や価値を付与されたもの)として生まれてきたのではない。ここから「実存は本質に先立つ」という有名な実存主義のテーゼが提唱された。
このようなサルトルの哲学は人間存在を認識する以上の答えは出してくれない、生きかたや、精神の深みなどは宗教や芸術などによって、はじめて得るものである、222番歌(ひんがしへひんがしへ犬(いぬ)の陰嚢(ふぐり)咲きひんがしへ行く良寛の足)の良寛は物質的には無一物に徹し、自然の山川草木を愛し、寺も妻子ももたなかった。作者は良寛のそのような生き方に共感し、サルトルを冷やかに見ているように思える。(石井)
(参考)(鹿取)
雪の樹を仰ぎおるとき口あけてみだらなりわがまっ赤な舌は『寒気氾濫』51頁
(当日意見)
★「無際なる体内の靄吐き出だす」のはサルトルだけでなく人間存在そのものではないかなあ。
私が参考に挙げた歌は雪の樹と対比させたまっ赤な舌を持つ〈われ〉を「みだらなり」と感
じています。だから私はサルトルを客観的に冷ややかに見ているというよりも、自分も含め
て突き放しているんだろうなと思います。人間を相対化しているのだと思いますが。(鹿取)
★サルトルは自然の有り様を言葉で説明しようとしました。良寛は自然と融け込むことに徹し
た人ですね。サルトルに赭き口という投げ出したようなうたい方をしていることからみて、
渡辺さんはサルトルを冷ややかに見ているのだと。渡辺さんはサルトルも含めて様々な人の
影響は受けているけれど、最終的には良寛の方に親和性を感じていると。(石井)
★時間経過の後では良寛に親和性を感じているとは私も思います。ただ、サルトルを批評的に
見ているならそこに同じ人間存在としての自分も含まれているということです。渡辺さんは
哲学科ですから当然サルトルは学んでいるわけですけど、思想的な影響関係とこの歌は切り
離して考えています。(鹿取)
(後日意見)
議論の時見落としていたが、『寒気氾濫』64頁に既に鑑賞を終えた次の歌がある。
ダンコウバイの黄葉の表裏陽のなかにサルトルも遠き過去となりたり
過去となったというからには、かなりの影響を受けたということだろう。けれどこの感慨にはいくらか過去に対する愛惜のようなものが滲んでいるように思われる。1966年、サルトルが来日し講演した時、高校生の私は聴講の応募葉書を出した記憶があるが、掲出歌はそういう類の講演か大学の講義の1コマの描写と読んでも面白い。むろん、作者の意図はサルトルという人間の総括であろう。『嘔吐』だけではなくサルトルの全体の著作活動や生涯を見渡して「無際なる体内の靄吐き出だす」イメージに集約しているのだろう。(鹿取)
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