2022年度版 渡辺松男研究2の14(2018年8月実施)
【はだか】『泡宇宙の蛙』(1999年)P69~
参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
98 なめくじのあかちゃんの角ぴくぴくとかわいいよ葉の宇宙はまわる
(レポート)
「ぴくぴく」が「なめくじ」の質感を表し、同時にかわいらしさも表現している。なめくじはどちらかと言えばあまり好まれない虫だろう。「角ぴくぴく」と観ている作者の姿も見えるよう。生きとし生けるものに平等に愛情を傾けている。下の句の「葉の宇宙はまわる」で、水の上に葉があり、その上になめくじがいるのだろう。(真帆)
(当日意見)
★オノマトペが独特なんだけど的確ですよね。「ぴくぴく」もとてもよく分かる気がする。
私は昆虫類や爬虫類などの虫は怖気が立つほど嫌いなんですが、これはなんか可愛らし
い。なめくじの赤ちゃんの角というところにズームインして、その後「葉の宇宙はまわ
る」、葉はなめくじにとって宇宙なんだけど、巨視的な宇宙に繋がっている。ここが渡辺
松男の独特な所。微視的なものが巨視的な宇宙に繋がっている。「葉の宇宙はまわる」っ
て絶対言えないでしょう、せいぜい言えて、葉っぱの上になめくじがいる、でしょう。飛
躍なんだけど単なる言葉の上の飛躍ではなくて実感を伴っている。渡辺松男の世界観、宇
宙観に繋がっているのだろう。(A・K)
★微視的から巨視的に転換するというのは、いろんな歌で松男さん試みていますよね。
(鹿取)
★哲学やった人だからでしょうかね、ものの見方がものすごく深くて。才能ですね。
(A・K)
★直観的に把握しちゃうんでしょうね。(鹿取)
★表記にもすごく神経が使われている。漢字が少なくて、いかにもなめくじのあかちゃんの
柔らかさが出ている。(A・K)
★前のひらがなの長い部分が「葉の宇宙」の漢字で引き締まりますね。(真帆)
★「まわる」の動詞がすばらしい。「葉の宇宙の上に」とかしちゃったら全然つまらない。
ただ葉っぱの上にいるだけになっちゃう。しかし渡辺さんのは葉の宇宙が回っている、動
きがある。単に観念的に微視的宇宙を巨視的宇宙に繋げているんじゃなくて実感がある。
こんなふうに動詞は普通は使えない。(A・K)
★小さななめくじをうたって、ダイナミックですよね。(鹿取)
★「なめくじのあかちゃんの角ぴくぴくとかわいいよ」ってほとんど男の子の言葉みたいで
すよね。なんか少年が見ているような。それでスーと入ってくるんだけど、「葉の宇宙は
まわる」って言 われるとがーんっと来る。恐れ入りましたという気がしちゃいますよ
ね。(A・K)
★幼児性とか、女言葉で語るとか、穂村弘さんもやっていらっしゃいますが、穂村さんのそ
ういう言葉づかいについてはA・Kさん、どう思われますか?松男さんとはよって立つと
ころが違うんでしょうか?(鹿取)
★穂村弘は作歌意識が強い。もちろん渡辺さんだってそれが無い訳じゃないけど。穂村さん
のバックにはいつも今生きている社会があるような気がする。渡辺さんは今という時間を
外した所に存在しているような気がする。少年の言葉も幼児の言葉も何も考えずに使って
いる訳ではもちろん無いけど、現代とか作家とかとは別にそういう言葉を使っていらっし
ゃる。穂村弘は頭のいい人だから現代という時代を意識して歌っていらっしゃる。「ゆひ
ら」とかあったじゃないですか?嫌な言い方だけど「ああ、やってるな」って感じがす
る。渡辺さんはやってるなって感じがまったくしない。そこが人間の深さかなあと。小手
先では絶対うたわない気がする。穂村さんは社会的とか現代とかいつも意識しながらうた
ってらっしゃる。だから幼児言葉も女言葉もこの場合必要なんだと考えて使っていらっし
ゃる。「なめくじのあかちゃんの角ぴくぴくとかわいいよ」って幼児言葉だけど渡辺さん
が実感として思っていらっしゃる。短歌は事実だけにつかないで虚をうたっていいと思う
んだけど、実を超える虚ならいいけど実を超えない虚はつまらない。渡辺さんの歌は一見
虚のように見えても虚ではない。実感で歌っている。作歌方法とかテクニックとか小手先
でなさらない方のように思える。横尾忠則の絵も似ている。誰かが言っていたけど芸術家
はみんな幼児性を持っているって。(A・K)
★その幼児性ということについては、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、坂
井修一さんが「汎生命と人間」という評論の中で少し触れられているので、その部分を紹
介します。
【渡辺のことばは、どの作品の中でも知的な幼児性をまとってたあちあらわれる。これ
は、いま述べた彼の自然観・人間観からしてとうぜんのことだろう。自然はほんらいおお
らかな幼児性をもつものであり、同時にそのことは、今の人間社会にあっては高い知性を
もって洞察しなければならないことなのだから。/ある人が知性と幼児性をともにたかく
もつことができたとしても、そのことは、その人が芸術家や文芸家としてすぐれた作品を
生み出すことをなんら保証しないだろう。渡辺松男の多くの作品は、現代短歌としてとく
にすぐれたものだが、ではいったい、その根拠とはなんだろうか。】
★渡辺松男と向かうときはこっちが問われるんだと思う。損得とかせこい考えから解き放さ
れる。(A・K)
【はだか】『泡宇宙の蛙』(1999年)P69~
参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
98 なめくじのあかちゃんの角ぴくぴくとかわいいよ葉の宇宙はまわる
(レポート)
「ぴくぴく」が「なめくじ」の質感を表し、同時にかわいらしさも表現している。なめくじはどちらかと言えばあまり好まれない虫だろう。「角ぴくぴく」と観ている作者の姿も見えるよう。生きとし生けるものに平等に愛情を傾けている。下の句の「葉の宇宙はまわる」で、水の上に葉があり、その上になめくじがいるのだろう。(真帆)
(当日意見)
★オノマトペが独特なんだけど的確ですよね。「ぴくぴく」もとてもよく分かる気がする。
私は昆虫類や爬虫類などの虫は怖気が立つほど嫌いなんですが、これはなんか可愛らし
い。なめくじの赤ちゃんの角というところにズームインして、その後「葉の宇宙はまわ
る」、葉はなめくじにとって宇宙なんだけど、巨視的な宇宙に繋がっている。ここが渡辺
松男の独特な所。微視的なものが巨視的な宇宙に繋がっている。「葉の宇宙はまわる」っ
て絶対言えないでしょう、せいぜい言えて、葉っぱの上になめくじがいる、でしょう。飛
躍なんだけど単なる言葉の上の飛躍ではなくて実感を伴っている。渡辺松男の世界観、宇
宙観に繋がっているのだろう。(A・K)
★微視的から巨視的に転換するというのは、いろんな歌で松男さん試みていますよね。
(鹿取)
★哲学やった人だからでしょうかね、ものの見方がものすごく深くて。才能ですね。
(A・K)
★直観的に把握しちゃうんでしょうね。(鹿取)
★表記にもすごく神経が使われている。漢字が少なくて、いかにもなめくじのあかちゃんの
柔らかさが出ている。(A・K)
★前のひらがなの長い部分が「葉の宇宙」の漢字で引き締まりますね。(真帆)
★「まわる」の動詞がすばらしい。「葉の宇宙の上に」とかしちゃったら全然つまらない。
ただ葉っぱの上にいるだけになっちゃう。しかし渡辺さんのは葉の宇宙が回っている、動
きがある。単に観念的に微視的宇宙を巨視的宇宙に繋げているんじゃなくて実感がある。
こんなふうに動詞は普通は使えない。(A・K)
★小さななめくじをうたって、ダイナミックですよね。(鹿取)
★「なめくじのあかちゃんの角ぴくぴくとかわいいよ」ってほとんど男の子の言葉みたいで
すよね。なんか少年が見ているような。それでスーと入ってくるんだけど、「葉の宇宙は
まわる」って言 われるとがーんっと来る。恐れ入りましたという気がしちゃいますよ
ね。(A・K)
★幼児性とか、女言葉で語るとか、穂村弘さんもやっていらっしゃいますが、穂村さんのそ
ういう言葉づかいについてはA・Kさん、どう思われますか?松男さんとはよって立つと
ころが違うんでしょうか?(鹿取)
★穂村弘は作歌意識が強い。もちろん渡辺さんだってそれが無い訳じゃないけど。穂村さん
のバックにはいつも今生きている社会があるような気がする。渡辺さんは今という時間を
外した所に存在しているような気がする。少年の言葉も幼児の言葉も何も考えずに使って
いる訳ではもちろん無いけど、現代とか作家とかとは別にそういう言葉を使っていらっし
ゃる。穂村弘は頭のいい人だから現代という時代を意識して歌っていらっしゃる。「ゆひ
ら」とかあったじゃないですか?嫌な言い方だけど「ああ、やってるな」って感じがす
る。渡辺さんはやってるなって感じがまったくしない。そこが人間の深さかなあと。小手
先では絶対うたわない気がする。穂村さんは社会的とか現代とかいつも意識しながらうた
ってらっしゃる。だから幼児言葉も女言葉もこの場合必要なんだと考えて使っていらっし
ゃる。「なめくじのあかちゃんの角ぴくぴくとかわいいよ」って幼児言葉だけど渡辺さん
が実感として思っていらっしゃる。短歌は事実だけにつかないで虚をうたっていいと思う
んだけど、実を超える虚ならいいけど実を超えない虚はつまらない。渡辺さんの歌は一見
虚のように見えても虚ではない。実感で歌っている。作歌方法とかテクニックとか小手先
でなさらない方のように思える。横尾忠則の絵も似ている。誰かが言っていたけど芸術家
はみんな幼児性を持っているって。(A・K)
★その幼児性ということについては、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、坂
井修一さんが「汎生命と人間」という評論の中で少し触れられているので、その部分を紹
介します。
【渡辺のことばは、どの作品の中でも知的な幼児性をまとってたあちあらわれる。これ
は、いま述べた彼の自然観・人間観からしてとうぜんのことだろう。自然はほんらいおお
らかな幼児性をもつものであり、同時にそのことは、今の人間社会にあっては高い知性を
もって洞察しなければならないことなのだから。/ある人が知性と幼児性をともにたかく
もつことができたとしても、そのことは、その人が芸術家や文芸家としてすぐれた作品を
生み出すことをなんら保証しないだろう。渡辺松男の多くの作品は、現代短歌としてとく
にすぐれたものだが、ではいったい、その根拠とはなんだろうか。】
★渡辺松男と向かうときはこっちが問われるんだと思う。損得とかせこい考えから解き放さ
れる。(A・K)
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