かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 254

2024-05-07 17:45:41 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究31まとめ(15年9月)
     【はずかしさのまんなか】『寒気氾濫』(1997年)107頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


254 見て見てと少女がひかる指を差す秋日の中のお馬のpenis

   (レポート)
「(略)『寒気氾濫』の特徴の一つと言っていいこうしたもの悲しく滑稽な男性の生と性は、今世紀の終末にある人間の哀しいほど素直な存在の裸体にもみえる。ことにも渡辺が自らの男性性にこだわり世界からの照り返しをこうした身体の部分に象徴的に受けていることに注目したい。ここに描かれた男性身体の部分は、なにか円滑に循環する生の流転からはぐれて奇異であり、意味と居場所を失って途方に暮れている。三首めの少女の無邪気は、その性の滑稽とあてどなさを指し、残酷でさえある。(略)」(川野里子著 『寒気氾濫』歌集評―欲情しつつ山を行く―
    「かりん」98年9月号 ) 
〈解釈〉少女は一頭の馬の異様におどろき、面白がり、眼を輝かせて「見て見て」と差ししめす。見るとそれは物悲しい秋の日の中に照らされている馬のペニスだった。
〈鑑賞〉「見て見て」と詠いだされる調子はとても弾んでいて、次に続く「少女がひかる指を」まで読み進むと、いったい何が始まるのだろうと期待する。すると風景は物悲しい秋の日に転じ、それが突出しているペニスだったとわかる。一首は、「ひかる」という語を全体に響かせ、馬を「お馬」と愛らしく呼ぶことで明るさを出しているが、男性の作者は一体どんな気持だったかと思うと、笑っていいような哀しいような妙な気がする。(真帆)


    (当日意見)
★レポーターは「秋日」を「しゅうじつ」と読まれましたが、音数や音感からすると
 「あきび」あるいは「あきひ」と読むのかなあと思います。「しゅうじつ」だと漢詩
 のような格調、あるいは重い感じがしますね。(鹿取)
★真帆さんが引用している川野さんの意見だけど、自らの男性性に拘りというのは違
 うんじゃないかなあ。少女は無邪気に言っているので、もっと軽い歌じゃないか。 
   (鈴木)
★川野さんは抽象的に総括していらっしゃるんだけど、「なにか円滑に循環する生の流
 転からはぐれて奇異」ってちょっと言い過ぎかなあと。私は真帆さんの感想の部分
 をいいと思いました。とても具体的に解釈していらっしゃって。(S・I)
★私の引用の仕方が悪くてすみません。川野さんは3首あげて書いていらしてS・Iさ
 んが触れられた部分は3首全体について書かれたところです。(真帆)
★3首のうちの他の2首はこうです。(鈴木)
  平原にぽつんぽつんとあることの泣きたいような男の乳首
  山よ笑え 若葉に眩む朝礼のおのこらにみな睾丸が垂る
★この「お馬のpenis」の歌について直接触れている「三首目の少女の無邪気は、その
 性の滑稽とあてどなさを指し、残酷でさえある」の部分についても、川野さんの解
 釈よりずっと無邪気な歌だと思います。ちょっとずれますが、「山よ笑え」の歌にし
 ても、以前鑑賞したとき言ったと思いますが、初句は「山笑ふ」という季語を命令
 形にしたものです。「山笑ふ」は「草木が萌え始めた、のどかで明るい春の山」の形
 容ですから、明るい春の山と睾丸の垂れた少年達の景が二重になって、命を肯定する
 暖かい歌だと思います。この254番歌についても同様に思います。(鹿取)


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