2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
『寒気氾濫』(1997年)44頁~
参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
103 無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む
(意見)
黒き樹は病んでいるのだろうか。「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老は、人々に慕われる修道院の長老だが、病気がちで余命幾許もない。聖者の遺体からは「芳香」がするという奇跡を人々は信じていたが、期待に反して、長老の遺体からは「腐臭」が立ちのぼる。そのようなゾシマ長老を、病んでいる黒き樹に見立てているのである。聖なるものの存在について、無(欠如)といわず、無無(欠如ではない)ともいわずは、樹内のゾシマ長老であり、聖なる黒き樹である。(鈴木)
(当日意見)
★無や無無が何なのか、分からなかったです。(慧子)
★鈴木さんはこの主語を聖なるものの存在と書いていますけど、まあ神と言い換えても
いいのかなあ。神が「無い」とも、「無いのでも無い」とも病んでいるゾシマ長老は
言わない。無とか無無は老人のふっともらす「ム」とか「ムム」という声にならない
声、感動詞のようなものに重ねています。言わずと否定していますが、見せ消ちのよう
な感じで、大きな黒い樹が「ム」とか「ムム」とか低い声を漏らしているようにも読め
てしまいます。そしてその木が病むゾシマ長老をそっと抱きかかえている。(鹿取)
(後日意見)
『カラマーゾフの兄弟』を読みふけって五教科で赤点をもらった、という意味のことが公開されている年譜の高校時代の項に書かれているので、渡辺さんにとってゾシマ長老や、以前の歌に出てきたアリョーシャはとても思い入れのある人物です。だからおろそかには読めません。あまり小説に立ち入っても何ですけど、ゾシマ長老の死を契機に、アリョーシャは生前の彼の教えを思い出して悟りのような境地に至り、感激の涙を流しながら大地に接吻するという場面があります。渡辺さんはこの歌で小説やキリスト教から少し離れて自分に引きつけているのではないでしょうか。「無」と「無無」を並列させる捉え方は禅問答みたいで、仏教の「色即是空、空即是色」にも通うところがあるように思います。渡辺さんは哲学を学んだ人ですけど、東洋(ゴータマに代表されるインド哲学、老子、荘子、禅など)と西洋(キリスト教やニーチェ等)の融合が自然に歌の上で行われているように思います。宗教の「無」という深遠で難しい言葉を使ってますけど、深みを持たせながら音で読ませてユーモアを滲ませている。全体に余裕のある歌いぶりで、もしかしたら人間を窮屈な聖性から解き放している痛快な歌かなあとも思います。(鹿取)
『寒気氾濫』(1997年)44頁~
参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
103 無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む
(意見)
黒き樹は病んでいるのだろうか。「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老は、人々に慕われる修道院の長老だが、病気がちで余命幾許もない。聖者の遺体からは「芳香」がするという奇跡を人々は信じていたが、期待に反して、長老の遺体からは「腐臭」が立ちのぼる。そのようなゾシマ長老を、病んでいる黒き樹に見立てているのである。聖なるものの存在について、無(欠如)といわず、無無(欠如ではない)ともいわずは、樹内のゾシマ長老であり、聖なる黒き樹である。(鈴木)
(当日意見)
★無や無無が何なのか、分からなかったです。(慧子)
★鈴木さんはこの主語を聖なるものの存在と書いていますけど、まあ神と言い換えても
いいのかなあ。神が「無い」とも、「無いのでも無い」とも病んでいるゾシマ長老は
言わない。無とか無無は老人のふっともらす「ム」とか「ムム」という声にならない
声、感動詞のようなものに重ねています。言わずと否定していますが、見せ消ちのよう
な感じで、大きな黒い樹が「ム」とか「ムム」とか低い声を漏らしているようにも読め
てしまいます。そしてその木が病むゾシマ長老をそっと抱きかかえている。(鹿取)
(後日意見)
『カラマーゾフの兄弟』を読みふけって五教科で赤点をもらった、という意味のことが公開されている年譜の高校時代の項に書かれているので、渡辺さんにとってゾシマ長老や、以前の歌に出てきたアリョーシャはとても思い入れのある人物です。だからおろそかには読めません。あまり小説に立ち入っても何ですけど、ゾシマ長老の死を契機に、アリョーシャは生前の彼の教えを思い出して悟りのような境地に至り、感激の涙を流しながら大地に接吻するという場面があります。渡辺さんはこの歌で小説やキリスト教から少し離れて自分に引きつけているのではないでしょうか。「無」と「無無」を並列させる捉え方は禅問答みたいで、仏教の「色即是空、空即是色」にも通うところがあるように思います。渡辺さんは哲学を学んだ人ですけど、東洋(ゴータマに代表されるインド哲学、老子、荘子、禅など)と西洋(キリスト教やニーチェ等)の融合が自然に歌の上で行われているように思います。宗教の「無」という深遠で難しい言葉を使ってますけど、深みを持たせながら音で読ませてユーモアを滲ませている。全体に余裕のある歌いぶりで、もしかしたら人間を窮屈な聖性から解き放している痛快な歌かなあとも思います。(鹿取)
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