2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
『寒気氾濫』(1997年)44頁~
参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
102 神学に痩せゆきしひと羨しけれわれらしきりに葱抜きている
(意見)
理性的思惟によって真理を把握する形而上的な神学に携わり、さまざまに煩悶して痩せてゆく人がいる。しかし、自然一般・感性的現象として形をなす現実の生活の中で、しきりに葱を抜いて悪戦苦闘している生活者からみれば、それは羨ましいことである。形而上的に生きたいと思っていればこそ、余計その思いが強くなるのだ。(鈴木)
(当日意見)
★「神学に痩せゆきしひと」を鈴木さんは一般的に捉えていますね。作者は具体的に誰
かを指していないのですが、たとえばニーチェは神学からはずいぶんはみ出して自分
の思想を打ち立てた人ですから、ちょっとそぐわないかなと思います。次の歌に「無
といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む」が出てくる関連から言え
ば、私は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャなんかを思い 浮かべます。「ひと」
というにはアリョーシャは幼い気もしますが、ゾシマ長老に心酔して純粋に神 学を求
め、学んでいる少年です。修道院に入って現実の社会は知らない少年なので、無神論
者の兄さんが連れ出して論争をしかけたり、現実の社会はこんなに醜くくて複雑怪奇
なんだと見せようとしたりするんですけど。「痩せゆきし」と過去形を使っているの
で、小説中の人物という私の解釈はちょっと苦しいところもあるんだけど、誰か例に
あげるとすればアリョーシャあたりかなという意味です。まあそういう人物が羨まし
い、という部分は私は言葉どおりと捉えました。だから上の句の具体か抽象かという
違いを除けば、解釈は鈴木さんと同じです。(鹿取)
★では、労働は尊くないの?(慧子)
★歌は倫理や道徳ではないので、ここは尊いとか尊とくないとかいう問題ではないです
ね。もし労働が尊いということを言いたいのなら、「羨しけれ」あたりが揺らいでく
る。もちろん、労働を蔑している訳でもない。ただ葱を抜くような農民の日常という
ものがある生活者としては(公務員としての生活者でも同じ事ですが)、「神学に痩
せゆきしひと」を羨ましいと思う、ということではないですか。 (鹿取)
★でも、自分たちを決して否定はしていないと思うなあ。実は神学に否定的で、ほんと
うに羨ましいとは思ってないんじゃないかな。この歌ではわれらの側に価値を置いて
いると思います。(慧子)
★いや、労働を否定しているんじゃないけど、形而上的な何かを求める心が強い作者だ
から、葱を抜きながら、やはり純粋に形而上的なものを求める立場に立てる人を羨ま
しく思うんだろうと私は思います。肯定とか否定とかゼロか100かではないと思い
ます。ただ、「われら」というところは複数になっているので、労働者の側に心寄せ
があるのは確かです。作者は農民の祖父のことをよくうたっていますから、葱を収穫
して出荷する作業にも何度も携わったことがるのでしょうね。この歌でも葱をひたす
ら抜いている情景が見えて、それは案外豊かな印象を受けます。(鹿取)
『寒気氾濫』(1997年)44頁~
参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
102 神学に痩せゆきしひと羨しけれわれらしきりに葱抜きている
(意見)
理性的思惟によって真理を把握する形而上的な神学に携わり、さまざまに煩悶して痩せてゆく人がいる。しかし、自然一般・感性的現象として形をなす現実の生活の中で、しきりに葱を抜いて悪戦苦闘している生活者からみれば、それは羨ましいことである。形而上的に生きたいと思っていればこそ、余計その思いが強くなるのだ。(鈴木)
(当日意見)
★「神学に痩せゆきしひと」を鈴木さんは一般的に捉えていますね。作者は具体的に誰
かを指していないのですが、たとえばニーチェは神学からはずいぶんはみ出して自分
の思想を打ち立てた人ですから、ちょっとそぐわないかなと思います。次の歌に「無
といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む」が出てくる関連から言え
ば、私は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャなんかを思い 浮かべます。「ひと」
というにはアリョーシャは幼い気もしますが、ゾシマ長老に心酔して純粋に神 学を求
め、学んでいる少年です。修道院に入って現実の社会は知らない少年なので、無神論
者の兄さんが連れ出して論争をしかけたり、現実の社会はこんなに醜くくて複雑怪奇
なんだと見せようとしたりするんですけど。「痩せゆきし」と過去形を使っているの
で、小説中の人物という私の解釈はちょっと苦しいところもあるんだけど、誰か例に
あげるとすればアリョーシャあたりかなという意味です。まあそういう人物が羨まし
い、という部分は私は言葉どおりと捉えました。だから上の句の具体か抽象かという
違いを除けば、解釈は鈴木さんと同じです。(鹿取)
★では、労働は尊くないの?(慧子)
★歌は倫理や道徳ではないので、ここは尊いとか尊とくないとかいう問題ではないです
ね。もし労働が尊いということを言いたいのなら、「羨しけれ」あたりが揺らいでく
る。もちろん、労働を蔑している訳でもない。ただ葱を抜くような農民の日常という
ものがある生活者としては(公務員としての生活者でも同じ事ですが)、「神学に痩
せゆきしひと」を羨ましいと思う、ということではないですか。 (鹿取)
★でも、自分たちを決して否定はしていないと思うなあ。実は神学に否定的で、ほんと
うに羨ましいとは思ってないんじゃないかな。この歌ではわれらの側に価値を置いて
いると思います。(慧子)
★いや、労働を否定しているんじゃないけど、形而上的な何かを求める心が強い作者だ
から、葱を抜きながら、やはり純粋に形而上的なものを求める立場に立てる人を羨ま
しく思うんだろうと私は思います。肯定とか否定とかゼロか100かではないと思い
ます。ただ、「われら」というところは複数になっているので、労働者の側に心寄せ
があるのは確かです。作者は農民の祖父のことをよくうたっていますから、葱を収穫
して出荷する作業にも何度も携わったことがるのでしょうね。この歌でも葱をひたす
ら抜いている情景が見えて、それは案外豊かな印象を受けます。(鹿取)
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