ブログ版 清見糺の短歌鑑賞
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
205 こうずいがくるまでうたえ老年のあぶらしたたるヰタ・セクスアリス
きよみ 2003年1月制作
「ヰタ・セクスアリス」は、森鷗外が自然主義文学を風刺して書いた小説。したがって、主人公は性愛を否定しているわけではないが、性欲におぼれ、翻弄されるような生き方はしていない。おそらく作者はこの小説を読んでおらず、「ヰタ・セクスアリス」(ラテン語で「性生活」の意)という題名からの思いこみでこの歌をつくったのではないか。しかし、この歌、それほど鷗外の主人公と違っているわけでもない。
作者は性愛を人間の自然な本性であるととらえ、老年のぎらぎらの性愛を謳歌しようといっている。それはややアナーキーの要素はあるが、デカダンとは違う。己に鞭打つような悲壮さはなく、おぼれるのでもなく心から楽しめというのだろう。ただ「こうずい」がいつ来るかわからない、というせき立てられる思いに切実さがにじむ。ここで「こうずい」は一つの比喩で、世紀末に流行ったアルマゲドンとか様々な災害とか戦争などもひっくるめて指しているのだろう。個人的に言えば、この一月後に判明する食道癌なども「こうずい」の最たるもので、何か予感があったのかもしれない。
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
205 こうずいがくるまでうたえ老年のあぶらしたたるヰタ・セクスアリス
きよみ 2003年1月制作
「ヰタ・セクスアリス」は、森鷗外が自然主義文学を風刺して書いた小説。したがって、主人公は性愛を否定しているわけではないが、性欲におぼれ、翻弄されるような生き方はしていない。おそらく作者はこの小説を読んでおらず、「ヰタ・セクスアリス」(ラテン語で「性生活」の意)という題名からの思いこみでこの歌をつくったのではないか。しかし、この歌、それほど鷗外の主人公と違っているわけでもない。
作者は性愛を人間の自然な本性であるととらえ、老年のぎらぎらの性愛を謳歌しようといっている。それはややアナーキーの要素はあるが、デカダンとは違う。己に鞭打つような悲壮さはなく、おぼれるのでもなく心から楽しめというのだろう。ただ「こうずい」がいつ来るかわからない、というせき立てられる思いに切実さがにじむ。ここで「こうずい」は一つの比喩で、世紀末に流行ったアルマゲドンとか様々な災害とか戦争などもひっくるめて指しているのだろう。個人的に言えば、この一月後に判明する食道癌なども「こうずい」の最たるもので、何か予感があったのかもしれない。
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