かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 311(トルコ)

2019-07-26 21:55:44 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子旅の歌42(11年8月)【キャラバンサライにて】『飛種』(1996年刊)P139~
  参加者:N・I、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
                  

312 うら若き駱駝は夢をみるといふキャラバンサライの胡桃の木下

     (まとめ)
 311番歌「キャラバンサライの廃墟に胡桃の木ぞ立てる机を置きて眠る人あり」を見ると、人間だけが涼しい木陰の机の上で眠っている図と読めるが、つづくこの歌では駱駝もその木陰の恩恵を受けているのだろうか。上の句は短歌的独断かもしれないが、「うら若き駱駝」という設定が何とも魅力的である。涼しい胡桃の木下で若い駱駝の見る夢は、きっとやすらかで楽しいものであろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 311(トルコ)

2019-07-25 19:57:13 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子旅の歌42(11年8月)【キャラバンサライにて】『飛種』(1996年刊)P139~
  参加者:N・I、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
                  

311 キャラバンサライの廃墟に胡桃の木ぞ立てる机を置きて眠る人あり

     (まとめ)
 廃墟となったキャラバンサライに立つ胡桃の木の存在感が、係り結びとなって強調されている。おそらくその胡桃の木陰であろう、机を置いて眠っている人があるという。この人間の体のリアリティが生々しく迫ってきて、長い長い歴史を負ったキャラバンサライを読者にくっきりと見せてくれる。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 310(トルコ)

2019-07-24 20:45:11 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子旅の歌42(11年8月)【キャラバンサライにて】『飛種』(1996年刊)P139~
  参加者:N・I、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
                  

310 キャラバンサライに泊まりし六百人と馬駱駝その廃庭の一本胡桃

      (まとめ)
 セルジューク・トルコ(1077~1308)時代に多く整備されたキャラバンサライは、2階が人の宿泊室、1階に取引所などさまざまな商業施設と管理所、馬や駱駝の泊まる場があったという。かつて600人が泊まった大きな宿だが、今は昔のような隊商の為の宿としては機能していない。観光客に解放されている建物には土産物店等が入っているそうだ。そんなキャラバンサライの庭に一本の胡桃の木が立っている。胡桃の木は高いものでは8~20メートルになるそうだが樹齢はどうであろう。中国には樹齢500年の胡桃の木があるそうだが、その辺りが最古木だとするとキャラバンが行き来した最盛期をこの胡桃は見ていないことになる。しかしそんな理屈は措いて、廃庭にある一本の大きな胡桃の木を眺めていると、キャラバンサライがいきいきと機能していた時代を見てきた証人のような懐かしみを感じたのだろう。滅び去った昔を偲ぶのに「廃庭」がよく効いている。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 309(トルコ)

2019-07-23 20:06:46 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子旅の歌42(11年8月)【キャラバンサライにて】『飛種』(1996年刊)P139~
  参加者:N・I、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
                  

309 瘤の水さへかすかさびしきけはひする秋の駱駝はすでに発ちしか

     (レポート)
 人間とその文明と共に過ぎてきた「駱駝」への情を読者に手渡している。そして秋の駱駝の出立いかんに限らず、命あるもの、非在、不在ということが思われる。世にあるもろもろがやがて「既に発ちしか」に収斂されてゆく。そんなことをしきりに思う。(慧子)


      (当日意見)
★駱駝によって秋の寂しさを感じている。(曽我)
★下の句は劇的な仕立てになっている。(鹿取)


     (まとめ)
 はろはろとした秋のただなかにあって、駱駝が瘤に貯えている水さえ寂しい気配がするととらえている。旅行者である作者の前に、現実の、たとえば観光用の駱駝は立っていたかもしれないが、作者が見ているのはもはや非在の、遙か昔の隊商の駱駝である。作者の空想の中で隊商の駱駝は東洋の絹を積んでもう出立してしまったのである。かつて鑑賞した「オリエント急行今日発車なし」と似たような手法である。
 余談だが、隊商達は沙漠でいよいよとなった時には駱駝の血を飲んで生き延びるのだと何かの本で読んだことがある。瘤の中の水は飲めるのであろうか。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 308(トルコ)

2019-07-22 18:07:44 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子旅の歌42(11年8月)【キャラバンサライにて】『飛種』(1996年刊)P139~
  参加者:N・I、崎尾廣子、T・S、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
                  

308 駱駝の背の意外なる高さ東洋の絹発(た)ちゆきしキャラバンサライ

     (まとめ)
 キャラバンサライに観光用の駱駝をおいているのだろうか。あるいは、古いキャラバンサライの建物を利用して駱駝を飼育している所もあるらしいからそれを見ての感想かもしれない。キャラバンは駱駝に荷を積んで移動したわけだが、駱駝を身近で見てみると意外なほど背が高い。荷は振り分けにするようなので荷を積んでもこれ以上に高くなるわけではないが、その存在感の大きさに圧倒されたのだろう。そして東洋の絹が東西の中継点であるここトルコから、更に西洋まで運ばれていったのだなあという感慨をもつ。「東洋の絹」はもろもろの文物が発っていった中のひとつを例示しているのではあるが、ここはどうしても「絹」でなければいけなかった。シルクロードという名称だからというだけでなく、透明な秋の空気の中で遙かな昔を偲ぶには、柔らかい光沢をもつ絹のはかなげなイメージがどうしても必要だったからである。(鹿取)

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