かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 328

2024-10-21 15:44:00 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究40(2016年7月)
    『寒気氾濫』(1997年)
    【明快なる樹々】P136~
     参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取 未放


328 沈黙がぬくみと感じられるまで一対一の欅と私

      (レポート)
 初めて会う人や動物に対して、私達はなにがしかの警戒心を持つだろう。しかし交流を重ねるうち、しだいに情が通い合うようになり、信頼関係が結ばれると当初の固さは解け、互いに心の温もりを感じられるようになるだろう。人と人であっても難しい関係性を、作者は欅の一樹と結んでいる。樹を愛でるのでも、頼るのでも、観察するのでもなく、「存在」対「存在」として向かい合う素直さ、厳しさ、また真裸の挑戦を、私もして行きたいと思う。(真帆)

   (当日意見)
★関連があるので、先月やった325番歌(一本のけやきを根から梢まであおぎて足る
 日あおぎもせぬ日)の「後日意見」のところを見てください。渡辺松男さんの エッセ
 ー「樹木と『私』との距離をどう詠うか」を抜粋して載せてあります。欅の歌とかこ
 れから出てくるので参考になるかなと思います。(鹿取)
★黙ってても暖かい空気が漂っている関係って人間にも在りますよね。真帆さんの
 「存在」対「存在」として向かい合う、というところにとても共感しました。好き
 な歌です。(鹿取)

      (参考意見)(先月に引き続き再掲)
 「樹木と『私』との関係をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3、4月号)という渡辺松男の文章がある。どの部分も重要だし、一部分を引用すると文意が通じない恐れもあるが、著作権の問題もあるので、一部を引用する。作者が樹をどう見ているか、少しは参考になるかもしれない。引用後半は、渡辺松男の歌とわれわれの鑑賞との関係にも当てはまるような気がする。(鹿取)
  ……実際に歌を作るときは木と一体化したいと思うだろう。外側にいるだけでは満足で
  きないだろう。木の実態を踏まえつつ、自ら詠おうとする木のなかへ入っていこうとす
  るだろう。木の対象性を超越しようとするだろう。主客分離において成立する認識は越
  えられなければならないだろう。木という生と死の一体となった感情のような呼びかけ
  を待ち、木が語りかけるのを待つ。その声は結局自分の声かもしれないが、同時に木の
  声でもあるだろう。木に呼ばれているときに私は私を実感するはずだ。木のなかで私を
  現象させてみたいと思うし、私のなかで木を現象させてみたいとも思う。……
          ( 引用文3行目の「越えられ」は、ママ )
 ……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもはみ
  出してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。木の器は相
  当に大きいので私の人間的解釈を充分に許容するだろうが、木はそこからあっという
  間にはみ出してしまう。つまりこれこそが木というものだというものはない。

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馬場あき子の外国詠 116、117  イタリア⑥

2024-10-20 21:17:53 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
    【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
      参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放
          

116 ソムリエはネロのセネカを知らざりき昼餐の質朴なかぢきまぐろよ

       (まとめ)
 115番の「コルドバの赤きワインに透かし見るネロを去りたる愁ひのセネカ」の続きで、コルドバで赤ワインを傾けながら昼食をとっている。餐とあるからやや豪華な料理であろうか。そこでソムリエにワインはどれが合うか相談しながら、ふとセネカのことを話題にしたのかもしれない。コルドバはセネカの生まれた土地だから当然知っていると思ったのに、ソムリエの反応は「セネカって誰?」というようなものだったのだろう。そこで旅人は驚いて「暴君で有名なネロの補佐をした哲学者ですよ。この町の生まれだそうですよ。さっきそこの公園でセネカの銅像を見てきましたよ。」などと説明するはめになった。「ネロのセネカ」(ネロに仕えたセネカ、を縮めたのだろう)というややこなれない言いまわしはこういう状況を想像するとよく分かる。もっとも、そうか土地の人でもセネカを知らないのかと黙ってひとり感慨にふけったのかもしれない。土地の普通の生活者というものは、たとえ町にセネカの像が建っていようが哲学者などというものにはえてして関心がないものだ。そしてワインを傾ける昼餐ながら素朴なかじきまぐろの料理が出てきたというのだ。
 こういう齟齬は、日本の地方の町などでいくらでもありそうな気がする。日本料理屋に入った外国人の客の方がその土地の歴史上の人物をよく知っているというようなことが。(鹿取)


117 コルドバの町の樹下に椅子ひとつ置かれてセネカ忘れられたり

        (まとめ)
 「ソムリエはネロのセネカを知らざりき昼餐の質朴なかぢきまぐろよ」の続きの歌。セネカの像はコルドバのメスキータの西門脇にあるという。樹下に憩うための椅子が一つ置かれている。そしてソムリエがセネカを知らなかったように大部分の町の人々は遠くセネカを忘れた日常生活を送っているのだ。考えてみればセネカは2000年ほど前の人であって、忘れられるのも無理はない。
 しかし、彼は悲劇を書き、哲学についての随筆などをたくさん遺した。『幸福な人生について』『心の平静について』『人生の短さについて』などの書名を眺め、現代の人々の忙しい日常を思うと、なかなか感慨深いものがある。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 115 スペイン⑥

2024-10-19 10:37:28 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
    【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
      参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放
          

115 コルドバの赤きワインに透かし見るネロを去りたる愁ひのセネカ

       (レポート)
 ネロは古代ローマの皇帝。在位54~68。初めはセネカなどの補佐により善政を行ったが、のち母と皇后を殺し、またローマ市の大火に際しては、その罪をキリスト教徒に負わせて迫害、のち反乱が起こり自殺。暴君の代名詞となる。そのネロのところをセネカは不興をこうむり隠退、ついに自決する。セネカはローマのストア派の哲人。西班牙生まれ。著書にギリシャ悲劇を範とする悲劇9篇のほか「幸福な生について」があった。(T・S)


       (まとめ)
 暴君として知られるネロは、ローマ帝国第5代の皇帝。セネカはネロの幼児期の家庭教師で、ネロ即位後は補佐役になった。もともとセネカは哲学者、詩人である。真偽は不明だが、ストア派の哲学者にあるまじき行為であるとして横領の罪で告発されたこともある。告発を受けたセネカはローマ帝国から得た財産の全てをネロへ返還し、学問に生きようと徐々に政治の世界から遠ざかったという。数年後、ネロを退位させる陰謀が露見、逮捕された者がセネカが関与していると告げた為、ネロはセネカを訊問しようとしたがセネカは呼び出しに応じなかった。よってネロはセネカに自殺を命じ、セネカは自死する。64歳だった。
 弟と母を次々に殺し、妻と師であるセネカを自殺に追いこんで権力を維持していたネロだが、穀物の価格が高騰するなど経済的な面からも市民の反感を買い、対立していた元老院は新皇帝を擁立、ネロは「国家の敵」となって逃亡。やがて追っ手が迫ったのを知って自害した。ネロの享年は30歳、セネカの自殺の3年後のことであった。(以上、Wikipedia等を参照)
 セネカはコルドバの生まれで、コルドバにはその像が建っている。ネロを去ったセネカの心のうちははかりしれないが、近親者を毒殺したり、無辜の民を迫害したりと暴虐の限りを尽くすネロに荷担し、私腹を肥やしたかもしれないセネカが本来の自分を取り戻したということか。政治より哲学や芸術の方が自分の本来のあり方だとはっと目覚めたということか。ネロを去ったセネカを、作者は「愁ひのセネカ」としてとらえている。「人生の短さについて」を書いたセネカはとにかくも64歳まで生きたがネロに命じられて自死し、やがてはネロも追いつめられて30歳の若さで自死する。作者は赤ワインを飲みながらネロとセネカの生きた時代やふたりの複雑怪奇な人生模様を思い感慨にふけっているのであろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 114 西班牙⑥

2024-10-18 10:47:57 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
    【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
      参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放
          


114 西班牙の野を行きし天正使節団の少年のみしアマポーラいづこ

      (レポート)
 天正遣欧使節は、キリシタン大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠がローマに遣わした使節。結句のアマポーラはスペイン語で雛罌粟、ポピーの一種である。ヨーロッパではこの花の群生をあちこちで見ることができるという。(T・S)


       (まとめ)
 次の章で天正使節団については詳しく検証するので、ここでは概略だけ述べる。天正遣欧少年使節団は4人、正史の伊藤マンショほか中浦ジュリアン、原マルチノ、千々岩ミゲルである。彼らはバテレンを保護した信長時代の1582年、長崎を出港、難行の末8年後に金銀財宝を積んで意気揚々と帰国する。しかし政権は秀吉に移っていて、彼らはすでに時代に歓迎されない存在だった。この後、追放、処刑と更に苦難の道をたどることになる。ちなみに、支倉常長ら慶長遣欧使節団の派遣は1614年で、天正使節団の32年後である。
 天正使節団として派遣された時の年齢は13歳から14歳、まさに未だいたいけな少年である。そんな少年のわかやかな姿態とアマポーラの可憐さが微妙に重なる。好奇心一杯の少年達がスペインの野で見たアマポーラ、作者は数奇な運命をたどった少年達を偲びながら、なにか形見のようにアマポーラを求めている。この旅は5月下旬から6月初旬、ちょうどアマポーラの花期にあたる。野原一面に咲くアマポーラを見たとしても、もちろんそれは400年も前の少年達がみたアマポーラではない。薄幸の少年たちを偲んで「いずこ」と余韻を持たせている。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 113 スペイン⑥

2024-10-17 17:41:28 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
    【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
      参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放           


113 川岸に鷺の木立てり西班牙のまつしろき翼はたたきやまず

       (まとめ)
 この川は先の歌(クワダルキビルの川上にハポンの街ありと指さす見れば心は騒ぐ)にあったクワダルキビル川であろうか。「鷺の木」とは変わった言い方だが、木に花ならぬ鷺がたくさん止まっている状態をいう。何の木だかは忘れたが、鶴ヶ丘八幡宮の池の端にも枝という枝に鷺が止まっている木が何本かあったのを見た記憶がある。たくさんの鷺が木の枝ではたたいている様が、旅の途上のあてどないさびしさに響いたたのだろう。慶長遣欧使節団、支倉常長たち一行の末裔が住む街が近いと聞いたからには、懐かしさもひとしおだっただろう。鷺だからどこの国でも真っ白いのだろうが「西班牙のまつしろき」といっているところに遠い歴史に繋がる気分があったのかもしれない。(鹿取)

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