マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

岩淵水門と青山土

2011年03月22日 | 江戸の川・東京の川

 実は荒川放水路を開削しただけでは、洪水対策は不十分でした。増水時、隅田川へ流れ込む水量を調節する弁、すなわち、後世言うところの岩淵水門をも作り上げなければ、大洪水を防げないのです。こちらの工事は大正5年(1916年)に開始され、大正13年(1924年)に完成しました。荒川放水路も岩淵水門の工事も、その指揮したのが青山土(あきら)でした。
 青山は25歳で東京帝国大学土木工学科を卒業後、単身パナマに旅立ち、パナマ運河建設に参加し、8年間建設工事に従事した後、その技術を日本の持ち帰り、帰国後は東京土木出張所の技官として勤務。放水路開削の中心人物として次第に頭角を現し、工事責任者となります。
 更に同時並行して進められた岩淵水門の工事主任ともなります。水門工事は、地盤が軟弱であったこともあり、当初から難航。青山の採用したコンクリート工法を用い、18mも掘り下げて強固な基礎を築く。完成以来、水門は幾多の濁流に耐え、隅田川への水流を調整し、赤水門と呼ばれ、まさに”水神さま”として首都を守り続けてきたとのことです。


 昭和57年(1982年)には少し下流に近代設備を整えた新水門(青水門)が完成し、旧水門はその役目を終えた。そのときの検査では、劣化もなく、驚くほど堅固だったという。青山はじめ当時の技師たちの精魂込めた仕事ぐりがうかがえると、「荒川新発見」はその日の記事を締めくくっています。(新水門:青水門)


 

 



 西の京都では、弱冠22歳で琵琶湖疏水工事の責任者となった田辺朔郎が、東の東京では、33歳で放水路開削に従事した青山土が、明治から大正にかけての時代の中を、志をしっかり持って逞しく生きた証を、今私達は、西に、東に、見ることが出来ます。

  
    (対岸は埼玉県。注ぐ川は新芝川)




荒川知水資料館

2011年03月21日 | 江戸の川・東京の川

 荒川河口から22Km地点に岩淵水門があり、その脇に荒川知水資料館はあります。知水資料館の事務局長の説明によると、この館の開設趣旨は「荒川とはどんな川か、流域の人とどうかかわり、どんな問題を抱えているのか」を知ってもらう事だそうです。私は荒川の流れの変遷が知りたくての見学です。(旧岩淵水門:別名赤水門)




 残念ながらこの時期、展示は1階のみ。2階・3階は計画停電のためか、あるいは余震に備えての為か、電灯は消され、中には入れません。1階には源流から河口までの大型イラスト、荒川に生息する魚が泳ぐ水槽、流域市民団体の情報や企画、絵画や写真などが展示されています。
 2階・3階の展示場には入れませんが、3階までの階段には、かって東京新聞が連載し、好評を博した「荒川新発見」の記事が貼ってあり、これを熟読しました。この「荒川新発見」は本として出版されていて、依頼すれば貸出しも行うとのこと。そこで1階受付に戻り、この本の貸出しを頼み
、併せて流域変遷を調べるのにベストな資料は何か聞きました。親切な対応をして頂き、4点ほどの資料も頂いて来ました。

 明治時代、荒川は現在の岩淵水門より下流では、現在の隅田川を流れていました。
 この”荒ぶる川”荒川は数知れない氾濫を繰り返してきました。「荒川新発見」によれば、享保2年(1742年)の大洪水では、江戸下町を中心に3914人の溺死者を出したと「享保江戸洪水記」は伝えます。また安政6年(1859年)、長瀞地域では、川から高さ20mの地点にまで大洪水が襲い掛ったと。明治40年(1907年)、明治43年(1910年)の大洪水では最悪の事態を迎え、この水害での死者は369人、浸水流失家屋は27万戸、被災者は159万人に達したそうです。
 この膨大な流失被害に衝撃を受けた政府は、岩淵町下流の南東に放水路開削を決意、明治44年(1911年)から国の直轄事業を開始し、大正13年(1924年)に通水式、昭和3年(1930年)に、20年の歳月を費やし、多くの犠牲者を出してようやく完成。開削予定地から追われた家屋1300戸にも上ったそうです。これ以降大きな洪水被害は蒙っていないとも書かれています。
 
 この荒川放水路と現在の隅田川の分岐点にあるのが岩淵水門。この水門の下流では以前の荒川は隅田川と名前を変え、その東側を流れる荒川放水路は荒川と名称変更し、両川とも東京湾に注いでいます。幅500mもあり、とうとうと流れる荒川が今から100年ほど前、主として人の手によって掘り始められた川であった事実に驚かされます。(左、船が進むのが荒川:右は隅田川へ)

 

 



   (手前が下流:左へ隅田川。右へ荒川)


   (赤水門を望み、左隅田川へ。右荒川)


荒川を遡上し、荒川知水資料館へ

2011年03月20日 | 身辺雑記

 久しぶりに、高島平に住む妹夫妻を訪ねました。その折、何時かは行ってみたいと思っていた荒川知水館見学を兼ねて、愛車で荒川を遡る事とにして、3月18日午後2時過ぎ、自宅を後にしました。
 まずは、自宅からほぼ北に進み荒川土手にぶつかります。ここまで約25分間。ここまでに多くの交通機関を横切ります。田端駅を過ぎると直ぐに山手線・京浜東北線・上越新幹線・東北新幹線などを跨線橋で越えます。ついで東北本線のガードを潜り、小台では都電荒川線と平面交差。小台橋で隅田川を渡り、漸く荒川にぶち当たります。
 河口から17Kmの地点から荒川河川敷のサイクリング道路を遡ります。途中岩淵水門を通り、荒川知水資料館の直ぐ傍も通りますが、計画停電の為3月中は土・日しか開館していないとの事なので、翌日に訪ねることにして、今日は途中下車しません。
 途中人影が非常に少ない。20日(日)に予定されていた板橋シティマラソン中止との張り紙が出ています。普通に大会が実行されれば、大会を2日後に控え、午後のひとときを練習に当てる多くのランナーで賑わっていたことでしょう。
 ゴルフに興じる数パーティと野球をやってる数ティームを見ただけですが、サイクリングを楽しむ人はやや多く、何台かの車に抜かれます。皆気持ち良さそうに疾走して行きます。前方遥かに見えるの多分秩父山系。河口から27Kmの新河岸で荒川と別れます。北風が強く、河川敷の走行10Kmだけで40分は掛かってしまいました。計算すると時速15Kmです。
 新河岸で荒川と別れ、新河岸川を越えて高島平へ、自宅を出てから1時間20分が経過していました。妹夫妻は手料理を作り待っていてくれました。手料理を肴に、四方山話に花を咲かせ、夜早めに就寝。
 妹夫妻宅に一泊し、翌3月19日(土)、岩淵水門で河川敷を離れ荒川知水資料館へ。(次回ブログに続く)
 
 


気仙沼・大島を思う

2011年03月18日 | 

 東北地方、とりわけ三陸沖を旅するのが好きだった。初めてこの地を訪れたのは高校3年生の時。クラブ活動の一環としての調査旅行で、先輩に連れられて、岩手県岩泉町から譜代に至り、当時のJR久慈線で久慈に抜けた。そのとき通過した種差海岸の砂浜の美しさに魅せられ、その後幾たびとなく、三陸を旅した。
 2度目に行ったのは教員になってから。自ら企画した修学旅行の引率で、浄土ヶ浜から、頭上にウミネコ舞う遊覧船に乗り、変化に富んだ美しい海岸線を海から眺めたのち、北上し、北山崎~北山浜間の自然遊歩道を歩かせ、宮古国民休暇村に泊まった。
 家人と一緒に、時には一人で、第三セクター第1号となった三陸鉄道に乗り、途中田野畑村で下車して、本家旅館を訪れると、食べきれないほどの、10種類にも及ぶ魚料理で、手厚くもてなして頂いた。このとき「田老」の10mの防潮堤を見学し、津波対策に巨額の費用を費やしていることを知った。
 子供が出来てからは、宮古国民休暇村と気仙沼国民休暇とが気に入って、家族で何度も休暇村に出掛けた。宮古から気仙沼へ向う鉄道からは波静かなリアス式海岸が眺められた。
 取分け、気仙沼国民休暇村は本土から船で対岸の大島に渡るアプローチと、採り立ての新鮮な魚料理に誘われて、何度も宿泊した。トライアスロン練習の施設も充実していた。

 浄土ヶ浜をはじめ三陸鉄道など多くは、昔の面影を留めてはいないことだろう。国民休暇村陸中宮古(現在の名称)は震災による被災者の受入のため、当分の間営業を休止し、国民休暇村気仙沼大島(現在の名称)も営業を停止しているとの事。幸いなことに両休暇村は損壊を免れたようだ。
 
 気仙沼・大島では大津波後火災も発生した。大地震→津波→火災と連鎖する三重苦の中で、被災した住民が一致団結してその火災に立ち向かった事も知った。
 津波があった11日の夜、気仙沼港の石油タンクから漏れ出した重油によって海面に火がつき、炎は7Km離れた島にたどり着き、山林に延焼した。山火事は当初、人家のほとんどない島の北側だけだったが、4日かけて島中央部の最大集落付近まで迫ってきた。応援の消防隊は容易に島に入れず、消防団60人に加え、300人を超える住民が消火に参加した。
 多くは自宅を津波で流され、身内と連絡が取れない人たち。「なんとか集落への延焼が避けられたのは、この島の団結力」と消防団長は語った。
 楽しかった思い出の残る気仙沼。今は困難な状況下にある被災地の暮らしを思う。
 
 

 


大震災を”天罰”とは

2011年03月16日 | 身辺雑記

 私が住む地方自治体の知事は、今回の大震災に関して「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘した上で「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と、報道陣に答えたと朝日新聞は伝えています。
 今、未曾有の困難に直面し、苦悩している被災者の方々への余りにも心無い言葉に憤りを感じます。この人は何時から”天”という高みに立ってしまったのか。他国民と比較して私達国民はそんなにも我欲が強いのでしょうか。
 そうではないですよと語りかける様な記事が、同じ朝日新聞16日朝刊の「ザ・コラム」欄に載っています。このコラム欄を読みながら、私は何度も涙を拭いました。少し長い文章になりますが、そこでの記事を抜粋します。
 インド紙は『(地震に際し)日本人はだれもパニックに陥らなかった。動揺する外国人を机の下にもぐらせ、避難所へ手際よく誘導してくれた。地震にここまで冷静に対処できる国は日本しかない』と。
 中国環球時報は『数百人が広場に避難したが、毛布やビスケットが与えられ、男性は女性を助けていた。3時間後に人がいなくなった時、ゴミ一つ落ちていなかった。日本人の冷静さに世界が感慨を覚えている』と。
 ニューヨーク・タイムス社元東京支局長は『罹災しても日本社会は整然として秩序が乱れない。日本人の忍耐力と回復力は尊い。阪神大震災で会った被災者が実に立派だった。繁華街で店という店のガラスが割れ、商品が手の届く先に見えるのに、誰も盗もうとしない。救援物資を待つ列が長くても奪い合いすら起きない。感心しました』と。
 海外メデアの注目する現象として『日本では被災地であからさまな便乗値上げが横行しないことだ。水や米が地震前と同じ価格で売られ、しかも人々はがまん強く、店の前で何時間も列をなして待っている』と。
 アメリカの大学教授はあくどい便乗値上げが起こらないことに触れて『日本以外ではまず考えられないことです。日本では、いくら街が廃墟になっても、人々は自制心をゆるめず、我が街のため結束している。被災後の市民のふるまいに胸うたれました』と。
 編集子は、最後にこうまとめました。『海外の人々は、日本の被災者たちの沈着で節度ある態度に賞賛を惜しまない。苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合う。日本の市民社会に対す世界の信頼は少しも揺らいでいない』と。
 私達が当たり前と思う行動が、世界から驚きの眼差しで受け捉えられていることに初めて気が付かされます。
 
 外国人に感じられる私達の国民性の美点は、怒るべきときにも声を上げず、行動も起こさない消極性と隣り合わせのものかも知れませんが、復興めざし皆が協力すべきときには大きな力となるものと思います。