一昨日の5月19日(日)、1982年3月に都立向丘高校を卒業した学年の同期会が、池袋「リベエラ」で、18時~20時までの予定で開かれ、出席して来た。11年前に開催された第1回の同期会も同じリベエラで、120名強の参加。第2回目の5年前が80名ほどの出席。今回の第3回が78名の参加との事。仲の良かったこの学年を象徴するかのような、高い出席率。
同期会に{Gaoka1982}と名付け、同名のHPも開設していて、同期会への案内も、参加希望もHPからと言うスタイルを取っている。URL http://www.hoahele.com/gaoka1982/index.php
参加教員は学年主任だったK先生と私。開会してすぐに教員挨拶が廻って来た。2番目に挨拶した私は、近況を語りながら「君たちは今年で50歳の節目。11年後の還暦の60歳の時にも是非同期会を開いてほしい。それまで長生き出来たら、”長きお勤め御苦労さま”と挨拶したい」と話し、乾杯の音頭を取った。
この様な会には立食形式が相応しく、元生徒同士の交流が活発になり、私も多くの生徒と思い出話に花を咲かせた。名前を思い出せる顔に比べて思い出せない顔の多さ。向こうから名乗り「〇〇です」。「え、あんなに痩せていた君が!」。体型が大幅に変わった生徒もいるのです。 男子数名からは名刺を貰った。会社の中堅以上の役割を担って活躍している様子がわかる。女子は皆落ち着いた感じで、31年前のヤンチャ振りは影を潜めていた。
宴終了間際には再度担任はステージに呼ばれ、記念品贈呈。有難い事です。卒業20年を記念しての第1回の会では、20年もののワインを貰ったことを思い出した。やることがおシャレで様になっている幹事さんたち。その彼らが作詞・作曲した「丘の上で」をバンド生演奏し、全員の記念撮影の後閉会。もっと長い時間続いてほしい同期会だった。
今回は2次会がセットされていなかったので、閉会後も皆その場を去らず、1年~3年のクラス別写真撮影をするなど、立ち去り難く、別れを惜しんでいた。 漫画家として超有名人となった桜沢エリカさんも来ていて、私は1年生のときのみならず3年のときも担任をしていたことを、恥ずかしながらそのとき気付かされた。そこで私は、彼女を交えての(ツーショットではなく)3人の記念撮影に収まるなどのミーハー振り。右の写真が私が担任をした元生徒2名で、左が桜沢さん。
今回の旅行で、5月13日(月)だけは”空白の一日”、事前に予定を立てていなかった。ホテルフジタ奈良に到着し、長旅の疲れを癒しながら”大和郡山を訪ね、興福寺の北円堂・南円堂を拝観しよう”と決めた。大和郡山には昨年の11月19日に短時間だけ立ち寄った。街なかを小川が流れる外掘緑地と、箱本十三町の古き家並みが情緒を醸し出し、私の好きな”古町”だった。ただここの最大の見どころは郡山城址。そこは訪れていなかった。そこで今回の散策の中心は城跡。
奈良からここを訪ねる鉄道は二つ。JR関西本線利用だと「郡山」駅下車。ひと駅で行けて160円。近鉄利用の場合が奈良線から橿原線に乗り換え「近鉄郡山」下車。5駅で220円掛る。この両駅が街の東と西の外れに存在し、その両駅を結ぶ矢田筋が街のメインストリート。
いつものように、降り立ったJR郡山駅から直ぐそばの観光案内所に寄り、地図やこれはと言うお店などの情報を仕入れる。ここで頂いた地図は3種類あったが、いずれも詳しい情報が載った上、見やすい地図という優れもの。この地図を頼りに散策を開始。 JR郡山⇒外掘緑地⇒紺屋川⇒和菓子菊屋⇒城跡⇒郡山城ホール⇒箱本十三町⇒近鉄郡山と巡った。今まで歩いた”古町”の中でも、実に歴史的建造物が豊富で、街並みが美しい。弘前や鶴岡と同じ様に、何度も訪れたいと思える城下町。以下はその重点的報告。(写真:外堀緑地)
①まずは郡山城跡。戦国の世、城主は筒井順慶から豊臣秀長へ。彼は城の大拡張工事や城下町繁栄の為の有効な数々の施策を実施したらしく、街を歩いていて人気が高い事が感じられる。江戸時代の享保9年、柳澤吉保の息子吉里が甲府より入城。以降明治2年の藩籍奉還まで柳澤家が藩主。
多くの、深い掘りが残されていて、堅固な城であった様子が分かる。天守台跡や追手門では昔のよすがを感じ、柳沢文庫は今回はパス。『菜の花や 中に城あり 郡山』許六の句碑あり。
(追手門)
(追手向櫓) ②街中を流れる紺屋川沿いに金魚屋「こちくや」があり、郡山は金魚の町でもあることを思い出させてくれた。全国大会もここ大和郡山で開かれ、この金魚屋さんは奈良県地区の予選会場。私達が文京区から来たことを知った店主「あそこは”金魚坂”と言う店があり、うちから指導員を派遣しているヨ」とのこと。(写真:こくちや正面)
(掘り:紺屋川) ③柳町商店街の外れにあるのが和菓子菊屋本店。創業400年以来の名物「御城之口餅」を注文すると、お茶が用意され、店先に座ってゆったりとその味を楽しめた。3個で240円という格安。他の支店と比較しても格別の安さ。伝統の味は、滋味深いものだった。(写真:出されたお餅)
④十三軒町と言われた数々の町並み。材木町・紺屋町・豆腐町・雑穀町・茶町・車町等々。そこでどんな仕事が行われていたかが今に伝わる町名。その家並みのあちこちを散策した。商工業種別を基本とした箱本十三町。その運営は十三町の当番制の自治であったそうな。その観光案内所は月曜日が休み。(写真:とある町並で)
⑤翌日も午前中に大和郡山に出掛けて「来たむ良」を訪れ昼食を摂った。右写真の定食がデザートの善哉が付いて1400円というお安さ。味付けも絶妙で、大和郡山の食の面での奥の深さを垣間見た感じ。(写真:来むら良弁当)
(落ち着いた雰囲気の店内)
5月14日は16時から當麻寺の練供養の日。混雑が予想されるので、近鉄を乗り継いで14時20分には寺に到着。この日、奈良地方は真夏日。午後の厳しい暑さを凌いで多くの人が日陰で、その時の来るのを待っていた。練供養は特別設えの”花道(橋)”上で行われる。その下が丁度日陰になっていて、絶好の待機場所。私達もその場に座り込んだ。
待つ身に、練供養の謂れの放送が2度も流れ、自然と覚えてしまった。
『中将姫は16歳で當麻時に入られ、尼となって仏道修行に励まれました。一目菩薩を観たいと願うようになり、曼荼羅を織り始められました。完成後一層仏道に精進なされました。その甲斐あって、29歳の3月14日に阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩など25の菩薩さまが中将姫を迎えに来られ、姫は西方浄土へと旅立たれたのでした。
今日の練供養はその時の様子を再現するもの。菩薩さまが、舞台の上手の極楽堂から、中将姫の待つ娑婆堂までお迎えに練り歩きます』の様な話です。(写真:正面が當麻寺本堂。そこへと通じる”花道”)
到着した當麻時駅からお寺まで一本道で、参拝の人・人の長い列。途中からお店が見え始め、屋台も登場し、山門をくぐるとそこはまるで縁日の会場。この日は学校が早めに終了したのか、多くの小中学生が嬉々として遊び戯れている。練供養は大人だけでなく、子供達も楽しめるものに進化(?)して来ているのを知るのだった。暑さのなかで待つ身に、冷たいものが欲しくなり、私もアイスクリームを求めて屋台を目指した。 そうこうするうちに16時丁度、供養が始まった。最初は親に連れられたお稚児さん達が進む。中将姫の魂を乗せるべき輿も通過すると、いよいよ菩薩さまの登場。顔全体を覆うように面を付け、前が見えないので、花道から落ちないようにする為、皆介添え付きだ。最後に観音菩薩と勢至菩薩が現れた。それまでの菩薩さまとは違い、介添え無しで、舞いつつの前進で、練供養は最高潮に達し、私達は花道の脇でその舞を見上げた。娑婆堂で姫を迎えた一行が、観音・勢至菩薩を先頭に、再度花道を極楽堂へ戻り、供養は終了。時に17時過ぎ。(写真:勢至菩薩)
(写真:観音菩薩)
供養の始まるころから終了まで、傍らにいらした方が、詳しい解説をしてくれた。今日は弟さんが面を被ったそうな。供養が1000年目を迎えた9年前、菩薩面を作り変えようとしたら25面全てには数億円の費用が要ることが分かり、弱ってしまい、インドネシアの職人さんに頼んで3400万円で済んだ等々の裏話。職業を伺うと、農家の技術指導で若い衆に技術を教えているとのこと。この練供養が単に寺のみの行事では無く、地元の方々に支持され、地元と一体となって、守られ来た、1009年の歴史と伝統ある行事であることも知ったのです。(写真:中将姫を乗せた輿)
(介添えと共に歩む菩薩)
(稚児さんと親:練供養の最後)
疲れた身に、仏堂や三重塔参拝の余力は無くて、又の来寺を念じて一路帰途に着いたのでした。いやそれより、菩薩を演じた方々猛暑さのなか御苦労さまでした。
昨年、テレビで「當麻寺練供養」という番組を観た。大和盆地の西端二上山の麓にある「當麻寺」では毎年5月14日に、中将姫の現身往生を再現する行事の”来迎練供養会式”が行われるという。画面には、菩薩面、装束を身に付けた聖衆(=人)が練り歩く姿が映し出されていた。人が仏を”演じる”映像。初めて見る光景だった。
併せてこの寺は真言宗と浄土宗の二つの宗派が共存し、當麻曼荼羅を織った中将姫の伝説も伝わると語られていた。手帖には「5月14日 當麻寺 練供養」と記入しておいた。偶然、今年そのメモを見て、練供養を思い出し、ここを訪れる計画をスタートさせた。
折しも、「當麻曼荼羅」完成1250年を記念して、5月14日を挟んだ4月6日~6月2日にかけて奈良国立博物館では特別展「當麻寺」が開催されることを知り、練供養の2日前に奈良博を訪れた。 残念な事に国宝「當麻寺曼荼羅」は、5月14日に備える為か既に里帰りしてしまっていたが、重文「当麻寺曼荼羅」(註:當麻寺曼荼羅ではない)を初めとする6点もの曼荼羅が観られた。又、重文の十一面観音立像を含む多数の、平安時代の仏様が展示されていて、當麻寺の、仏像面・美術面での懐の深さを垣間見る事となった。特に「中之坊」本尊の十一面観音菩薩は、やや足太ではあるが、お顔が優しく、優雅な立居姿であられる。
中将姫伝説も絵巻で語られていたが、私は「山越阿弥陀図」が一番印象に残った。二上山の雄岳と雌岳の間に沈み行く落日。その陽を後光の様にして描かれた阿弥陀さま。こころ安らかに、西方浄土とへと招かれる心地。極楽浄土への一歩手前としての當麻寺。ーー極楽浄土へのあこがれーーと題する本展示を象徴する絵とも私には思えた。現実には、二上山へ沈み行くやや前の太陽を、近鉄「當麻寺駅」から撮影出来た。練供養そのものは別の機会に。
『旧中川』の続きを書くような表現をしてしまったが、実は、昨日から家人と奈良に来ている。毎年5月14日に行われる『當麻寺練供養』と、15日に行われる京都『葵祭』の両方を観る為、12日~15日まで奈良に滞在。3月に出掛けた大津と同様に、JR東海の旅行パックを利用しての旅で、宿3泊+新幹線往復のパック料金が非常にお安い。
昨日の12日(日)東京発7時の新幹線は9時18分京都着。午前中に「国立京都博物館」へ、午後に「国立奈良博物館」へ出かけた。どちらの博物館も「国立東京博物館」の年間パスポートで入館が可能である。京都では昨日が特別展「狩野山楽・山雪」の最終日。日曜日で絶快晴とあり、10時前には入場前の列が出来ていた。それでも15分待ちで入館。
徳川幕府御用絵師となり江戸へ出て行った狩野家本流(江戸狩野)に対し、京の地にとどまり、狩野永徳の弟子筋によって濃厚な画風を確立した「京狩野」。山楽は永徳の弟子で、成長し京狩野初代の統率者となった。山雪は山樂の娘の婿となり、その後延々と続く京狩野の二代目総帥。桃山時代から江戸時代へ変転する波乱の時代を絵に生きた2人の大展覧会で、重要文化財13件、新発見9件も展示されるとネットで知っていた。
山楽の「龍虎図屏風」の虎の姿が素晴らしい。間近で観ると獰猛な表情が迫力満点。山雪作「雪汀水禽図屏風」に描かれた波は、繊細・華麗である。初めてみる波の形と思う。2人の合作と見なされている「朝顔図襖」や、山楽の大覚寺所蔵「牡丹図襖」は、色彩が華やかだ。
山楽が豊臣家滅亡後、徳川幕府に追われ命の危機に見舞われたことを初めて知った。狩野派と言えば時の権力者に優遇されていただけでないことも、遅まきながら知った事であった。
(龍虎図屏風の一部)