1590年の徳川家康の江戸入府以来400有余年、関東平野では、荒川の西遷・利根川東遷・荒川放水路や中川放水路の開削など幾多の河川の付替えや大規模土木工事が行われてきた。何とかその変遷を年の経過に従って理解しようと、例えば鈴木理生「江戸・東京の川と水辺の事典」などを読んだが、川の名称が時代によってその指し示すヶ所が変化したりで、良く理解出来ないところが多々あった。”書を捨てよ、町へ出よう”ではないが、実際に川辺を歩きながら、関東平野の、主として川の変遷の歴史を理解したいと考えていた。
5月10日(金)の昨日、旧中川の下流部分を歩いて来た。
旧中川は1924年(大正13年)に荒川放水路(現在の荒川。以下荒川)に注水が開始される以前は中川と呼ばれ、埼玉平野から流れ来て東京湾に注いでいた。しかし荒川の開削により、川は分断された(=ぶった斬られた)。上流部分は、荒川と平行に、ほど同時期に開削された現中川に流込み、東京湾に注いでいるが、下流部分は木下川水門によって流れを遮られた。その下流は再び荒川と交わるのだが、こちらも荒川ロックゲートによって締め切られている。
廻りくどい表現になlてしまったが、要するに、上流と下流で荒川と繋がっているが、平成の今では二つの水門によって流れを断たれた、”水流の孤島”で、流れのない川。鈴木理生は「江戸の川・東京の川」の中で”たんなる水たまりになった”と嘆いている。
しかし、この川は広重の浮世絵「名所江戸百景」などを見ても分かるとおり、緑と詩情豊かな岸辺を持ち、昭和まで人気の観光スポットだったらしい。しかし1945年の東京大空襲で3000人もの方がこの川中で焼死し、それを供養しての灯篭流しの8月15日に限って両水門は開かれ、水が流れる、という事も出掛ける直前に知った。
都営新宿線東大島駅で下車。神保町方面から来て始めて地上に顔を出して直後の停車駅が東大島で、この駅は旧中川の真上に作られている。ここを起点としての川旅。初めて知る意外な事実に数々に出会った。次回ブログに。
左の地図で、赤い曲線が旧中川。太い水色の円弧が荒川。上が上流。下流の左の下部で左に伸びる直線が小名木川。