先月は投稿出来ませんでしたので、先月書いた迷文を載せることにします。
読んでおくれやす~。
幸せな溜息
十年ほど前になるが、和子が温泉へ行った時のことである。季節は秋の終わり頃だった。
その頃、和子と智子は温泉にハマっていた。二人が通っている週一回のエアロビクス教室が終わると、一台の車に乗り込み、あちらこちらの温泉に行ってエアロビでかいた汗を流し、ランチも楽しんでいた。
智子とはエアロビ教室で知り合ったのだった。聞けば、同じ町内で年齢も同じだった。目立たない性格の智子と、何事にも行動的な和子は、正反対だったが、凸凹コンビでよく気が合った。
その日は車で三十分の所にある〝猪の倉温泉〟へ行こうということになり、二人揃って来たのだった。
折角、温泉に来たのだから露天風呂へも入ろうと、智子を誘ったが、寒いから行かないと言うので、和子だけで入ることにした。
内風呂で十分体を温めて、少し下にある露天風呂への坂道を、滑らないようにそろそろと歩いて行った。
露天風呂では、白髪交じりの八十歳くらいの人を囲んで何やら姦しい。和子が野次馬根性でそっと近づいて耳をそばだてると、そのおばあさんが得意気に喋っている。
「好きでもなかったんやけど、旦那が死んだらエライ痩せましてな。これではアカンと思うてあちこちの銭湯の炭酸泉へ通いましたんや。そしたら、えらい体の調子がようなってきてな。それからは、カネは生きとるうちに使わなアカンと思いましてな、あっちやこっちへ行ってますんや。それでな、今日はここがええと聞いたもんで、来ましたんや。……今日は入れ歯を家へ忘れてしもて……」と、歯のない口でふごふごと喋っている。
おばあさんに相槌を打っているのは六十代から七十代の四人組。
「どちらから来られましたん?」の和子の問いに「猪の倉温泉へ行こ! と朝から電車に乗って大阪から来ましたんや」といかにも〝大阪のおばちゃん〟らしき人が答える。
和子もしばらく大阪組と肩を並べて、フムフムと、おばあさんの話を聞いていたが、智子が待っていることを思い出し、お先に湯からあがることにした。
風呂上りに智子と〝猪の倉定食〟を食べながら、露天風呂のおばあさんの話をした。そして、あの大阪組はいつまでおばあさんと、お風呂談義をしていたのだろうかと、笑いあった。
もう、十年も前のことであるから、くだんのおばあちゃんは亡くなっているだろうな、と和子は思いながらも、あの時の光景が目前に浮かんでくるのだった。
果たしてあのおばあちゃんは、心おきなくお金を使えたのだろうか?
自分に授かった残りの寿命は分からないし〝ピンコロ〟で逝ける保障はない。
という事実に財産の半分も使えなかったのではないだろうかーと想像してしまう。
例年なら国内外の旅行に一緒に出かけていた和子と智子は、コロナ禍でどこへも行けなくなってしまった。
和子は定期的に振り込まれる年金によって残高が増えていく通帳を見ながら、あのおばあさんの「カネは生きとるうちに使わなアカン」との言葉を思い出して幸せな溜息をつくのだった。
足元の座布団には、高齢猫のドラミが、薄目を開けて和子を見ていた。