薩摩の役人の中国漂流記 「筆のすさび」
2024.7
原題は、「唐山漂流紀文」
御医の福井近江介が、薩摩の人より得た漂流記を写した文章を、私は見せてもらった。
以下に、記す。
唐山(とうざん:中国のこと)に漂流するものは、多いが、このような事(風景や扁額の文字)に心を止める人は少ない。
この他にも、なお面白い興味深い事が多かったであろう。(原注:この文は、漢文であった。いま、和文になおして記す。訳文の拙いのを笑わないでいただきたい。)
本藩の士の税所子長(さいしょ しちょう、であろうか?)、古後士節(こご しせつ)、染川伊甫(そめかわ いすけ)、祇役(原ふりがな:きやく。役職名であろう)を琉球に派遣した。そして、乙亥(きのとい:1815年)の秋八月に薩摩に帰ろうとした。
しかし、航海中に台風に遭遇した。漂流する事数十日間で、冬の十月に、唐山(とうざん:中国のこと)の広東省の碣石鎮に着岸した。
その広東より江南を経て、おおよそ(琉球を出てから)六ヶ月にして浙江省の乍浦(ざっぽ)港に至った。そして、中国に留滞すること五ヶ月にして、遂に日本に帰る許可が出た。
広東の南雄州(今の広東州南雄市)より南安府(?)に赴いたが、途中で大庾嶺(たいゆれい)を通過した。
時に孟春(旧暦の一月)に属し、梅の花の盛りであった。
(訳者注:広東から大庾嶺に行くと、南安府に行くことは、ありえない。記憶違いか、地名の誤りかであろう。))
道の左に、唐時代の賢相である張九齢の墓があった。「芳流千古」の四字が碑に書かれていた。
又、そこから数歩の所に張公の祠堂があった。遺像は、りんとした様子であった。左の巌窟中に六祖大師の坐像が安置されていた。厳かで、生けるがごときであった。側に泉があり、六祖清泉と言った。
道を上って、一里余りで山頂に至る途中に門があった。門に扁額があり、「嶺南第一」の四字が書かれていた。門を通りかかると、左壁に「梅嶺」の二字が見えた。
一日中、登り下りしたが、眼に触れる所は、すべて奇観であった。
時に清国の嘉慶ニ十一年正月十一日であった。
実に本朝(日本)の文化十三(1816年)年丙子(ひのえ ね)正月十一日であった。
子長は、見た物を多くの図にして、持って帰り、人に見せた。士節や伊甫も又、中国の様子を、事細かに語っていた。
私は、その図を写しとり、かつまたその語った事を、記した。それを、峩山(がざん:お寺か?)の月江師の清翫(せいがん:多分坊さんの名)に贈った。
己卯(つちのと う:1819年)八月、
薩摩の梅隠有川貞熊(バイイン雅号、ありかわ姓、ていゆう名) 記す。
以上、「筆のすさび」より。
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