サッカー(蹴鞠けまり)の精霊 千年前の
2023.3
昨今は、サッカー(フットボール)が、大変な人気です。
私が、子供の頃は、スポーツと言えば、野球であり、
サッカーやフットボールという言葉を、ほとんど聞いたことがありませんでしたが。
大分、変わったものです。
その、サッカーについて、興味深いものを見つけました。
「伊勢参宮図会」(寛政9年1797年)を見ていると、おもしろい絵が目に付きました。
蹴鞠の精(精霊、Spirit)の絵です。
これは、と思い、読んでみました。
蹴鞠とは、鞠を蹴って遊ぶスポーツです。
いわば、千年前のサッカー(フットボール)です。
もうすこし、知りたいと、「古今著問集(鎌倉時代の説話集)」も参照してみました。
表題に精霊と書きましたが、「古今著問集」には、「性(= 精に音が通じる)」とあります。「伊勢参図絵」には、「精神」とあります。
現代語では、「精霊=Spirit」が、最も文意に沿っているので、これを使いました。
以下、絵と、著問集の蹴鞠の部分を紹介します。
この絵は、私所有の「伊勢参宮図会」の中にあり、そのままだと見ずらいので、見やすいように加工しました。
江戸時代のものなので、もう、著作権は切れています。自由に、引用して下さい。
以下、本文
大納言藤原成通(ふじわらのなりみつ、1097~1162年)卿の、蹴鞠(けまり:昔のサッカー)の技は、大変に優れたものであった。
このようなことが伝えられている。
蹴鞠(けまり:昔のサッカー・フットボール)を好むようになって以来、競技場に行くこと、7000日。
そのうちの2,000日は、休まず連続であった。
その間に、病気の時は、寝ながら鞠を脚(あし)にあてていた。
大雨の時は、太極殿の屋内で蹴鞠をした。
千日間連続の蹴鞠の終わりの日には、続けて300回以上、蹴って、落ちる前に蹴り上げた。
そして、棚を二つ設けて、一つの棚には、鞠を置いた。
もう一つには、神様に供えるような、さまざまな供物を並べた。
そしてお祓いなどに使う幣(ぬさ)を一つ立てた。
また、幣(ぬさ)を手に取って鞠を神様のように敬い拝した。
蹴鞠の競技の終わった後、参加者全員が席につき、乾杯した。
三度目の乾杯の後、それぞれの参加者が得意技を披露した。
五回の乾杯の後で、参加者に褒美を与えた。
すぐれた者には、檀紙・薄様(うすで)を、侍者たちには、衣服を与えた。
祝宴が終わって人々が退出し、夜になって、そのことを記るそうとした。
灯(あか)りを近くに引き寄せ、墨をすったが、棚に置いてあった、鞠が前にころがって落ちてきた。
「不思議だ・何事であろうか?」と思ううちに、怪しげなのが現れた。
顔は、人で、手足や体つきは猿のようで、大きさは、三・四歳位のものが三人、手には鞠持っていた。
驚いたと思いながら、
「何者だ?」と厳しい声で聞いた。
「我らは、鞠の精である。」と答えた。
「昔より、あなたほど蹴鞠を好んだ人は、いません。千日の後に、さまざまな供物をいただき、お礼を申し上げようと、また、我らの姿や、鞠のことをも話そうと、出て来ました。我らそれぞれを名をお教えしましょう。これを、見よ。」
と、眉にかかった毛を押し上げた。
すると、
一人の額(ひたい)には「春陽花」と言う字があり、
一人の額には、「夏安林」と言う字があり、
もう一人の額には、「秋園」と言う字があった。
文字の色は、金であった。
(伊勢参宮図会には、「しゅんようか」、「かあんりん」、「しゅうえん」とルビがふってある。)
このような、文字を見て、、「いよいよ不思議だ」と思った。
また、鞠の精霊(原文では、玉生=たましい、となっている)に質問した。
「蹴鞠は、いつも行われてはいない。その時は、どこに住んでいるのだろうか?」
答え。
「鞠の競技のときは、鞠に付いております。蹴鞠の無いときは、柳の多い林、清い所の木に棲んでおります。蹴鞠を好む時代は、国が栄え、良い政治が行われている時代です。幸福感があり、寿命は長く、病気もせず、来世も良いことになります。」
また、質問した。
「国が栄え、出世も出来、命も延び、病気もせず、福がくるのは、さもあるであろう。
しかし、来世までも良いと言うことは、言い過ぎではなかろうか?」
と言った。
鞠の精は、
「そのように、思うのは、もっともな亊です。
しかし、人間というものは、一日のうちの多くは、つまらない亊やよこしまな亊を考えるものです。
それも、神仏から見れば、罪に当たります。
蹴鞠を好む人は、蹴鞠の競技に臨んで、鞠のことだけ考えて、他のことは考えません。
すると、邪念が起こらないので、来世に極楽に生まれ変われる機縁となりましょう。
ですから、蹴鞠のことを好むべきなのです。
あなた様が、私どもの誰かの名を呼べば、木を伝って、お仕えいたします。
ただし、庭での蹴鞠は、お好きではなさそうです。
木から離れている建物では、近寄る術(すべ)が、ありません。
今後は、私ども蹴鞠の精霊がいることを、心にかけていただければ、お守りとなりましょう。
蹴鞠の技(わざ)は、ますます良くなって行かれましょう。」
と、このように話している内に、姿が、見えなくなった。
(訳者注:当時の仏教の思想では、死後に極楽浄土に行けることが、理想でした。
当然、生前に悪事を働いたり、邪悪なことを考えたりしては、極楽に行けません。
蹴鞠、つまりスポーツに没入すれば、邪悪なことを考える隙間はありません。
だから、極楽に行くことに近づける。と言う事でしょう。)
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