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江戸時代の入れ墨の刑  図示(風俗画報)

2024-09-16 12:44:23 | 江戸の人物像、世相

江戸時代の入れ墨の刑    図示

                                                    2024.9

「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、江戸時代の軽い刑罰と、それに伴う入れ墨についての記述と図が示されている。
「風俗画報」は、明治時代に発行された雑誌です。
江戸時代の様子を記録する、というのがこの雑誌の主旨の一つです。

以下、本文。

徳川時代のお仕置き  蓬軒(この文の作者らしいが、どんな人かは不明)

徳川幕府の定めた法令としては、百箇条(百ヶ条)が、知られている。当時、実に重要なる法令であって、主に刑事上の事を規定したものである。
この規定は徳川祖宗の始めたものであった。
昔は、罪人の処刑があるごとに、将軍みずから筆をとって、百箇条中に訂正追加をした、と言う。
これは、官吏の執法の当否を検証するの意であろう。
しかし、八代将軍吉宗公が、紀州より入って将軍位を継ぎ、政務を励むに及び、(享保、寛保、延享の頃)寺社奉行 牧野越中守、石河土佐守 等に命じて百箇条を増補した。
世に寛保律と言うものが即ちこれである。

その後、十一代将軍家斉(いえなり)公の治世に至り、老中松平越中守(白川楽翁公)更に、法令を増補した。
これを寛政律と名付けた。

以上の二回の改革は、思うに、
人間社会が日に日に進んで、人々の行動が次第に煩雑となり、
百箇条にては、事にあたって、不都合を感じることが多かった故であろう。
しかし、幕府は、最後まで祖宗の範を脱しえなかった。
当時の増補は、もとより百箇条の精神を失わぬ事につとめ、かつまた、従来の不文律であった物を百ヶ条中に記入したのに過ぎない事である。

よって、今これを古老に聞きただし、列記して当時の実況を知るの便に供する。


入墨 入墨は附加刑であって追放・敲(たたき)等の正式な刑に属している。
ただし、江戸は伝馬の牢屋敷にて執行し、入れ墨が乾くまで、入牢を申し渡す。

江戸 京都 大坂 長崎は、享保五庚子年(1720 かのえね)二月十七日制定
増入墨は        安永六丁酉年((1777 ひのととり)一月三十一日
人足寄場は       寛政五癸丑(1793 みずのとうし)年十一月五日
伏見 奈良 駿府 甲府は寛政三辛亥年(1791 かのとい)七月二十九日
山田 堺は       寛延四辛未年(1751 かのとひつじ)四月十九日
佐渡は         賓暦十庚辰年(1760 かのえたつ)二月十四日
日光 関東郡代は    寛政三辛亥年(1791 かのとい)三月八日

敲(たたき) 敲は正式な刑罰であって軽重がある。
軽い罪には、五十回、重い罪には百回をたたく。


刑は、江戸では、伝馬町の牢屋敷の表門外にて、執行する。
検使は御徒目付御小人目付、立合は町奉行与力同心。
 

刑罰の対象(百箇条の一部)
〇商品の代金を請け取ったが、品物を渡さない者
○品物を二重に売った者
○取次品を質入れ、又は売り払った者
○金銭物品を横取りした者
○奉行人、手元にある品を持ち逃げした者
○奉行人が、取引先から金銭物品を持ち逃げした者
○巧み候儀も無之軽く取除け致し候者
○給金を請け取ったが、主人の方へ引き移らない者
○軽い盗みをした者
〇風呂屋にて、衣類、着替を盗んだ者
○盗んだ物と知りながら、それを預った者
○隠した物と知りながら買った者
○辻番人の巡回地区内で拾った品物を、届け出なかった者
以上、金額として十両以下(品物は、代金として十両以下)の場合は、入墨の上、軽く敲く。

(未完)(以上は、条文の一部)

以上。


「風俗画報」明治二十五年十二月十日(東京、東陽堂)には、図があるので、それを示した。

 



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