ミイラの採集方
及び「ミイラとりが、ミイラになる」の出典
「ミイラとりが、ミイラになる」ということわざは、何となく、外国起源のような感じがするとは思います。
しかし、日本独自のことわざです。
「史籍収攬 渡辺幸庵対話」には、おそらく「ミイラとりが、ミイラになる」という言葉の起源になった伝聞が、記述されています。
(更に、その大元は、不明です。この渡辺幸庵対話以外にも、似たような記述があります。)
この、「ミイラとりが、ミイラになる」という言葉は、日本独特の言葉です。
外国語(私の場合は、英語、中国語)で、これに相当する言葉を見たことがありません。
ミイラの採集方
以下、「史籍収攬 渡辺幸庵対話」の本文
交趾(コウチ:今のベトナムと重なる)と暹羅(シャム:今のタイ)の間に、300里ばかりの砂原(砂漠)が有る。この場所の往来には、松の木の丸太船に乗り、6尺ばかりの、小さい帆をかけ、体には箕を着ける。なぜかというと、風が激しく、砂を吹きかけるからである。目だけを出して、その砂原を風の力で走るのである。
その時に砂原に人の死骸が年月を経て堅くなったのを見つけては、熊手のような物を用意しておいて、引っかけ引きずって帰ってくるのである。
肌は、乾燥して堅くなるが、着ていた木綿はそのまま腐らずにある。
これをミイラと云う。
これは偶然にしか得られないので、ミイラは至って貴重である。
向こうの国でも、秘蔵している。
その上、人は死ぬと小さくなる。
まして乾燥して固まったものであるので、毎年得られる物ではない。
往来の時に、偶然見つけて、手に入るものである。
時として、日本にもミイラが渡来するが、多くは作り物(=偽物)である。
これは、火葬場の柱に、年々たまった人の油を取り、松脂の古いのと練り合わせたものである。
人の油なので、薬効がある。
以上。
「史籍収攬 渡辺幸庵対話」広文庫 より
内容を見れば、この記述が、ミイラを運んできたオランダ人の知識とは、一致しないことがわかります。
交趾(コウチ:今のベトナムの一部)と暹羅(シャム:タイ国)の間は、カンボジアかラオスです。
乾燥した、灼熱の砂漠はありません。熱帯の林か草原です。
オランダ人は、ミイラがどこから来たかを、知っています。ミイラを、商品として運んできたのは、オランダ人ですから。この故事のもとは、オランダなどヨーロッパからのはずは、あり得ません。
中国人も、交趾(コウチ)と暹羅(シャム)の間に、砂漠が無いことは知っていたでしょうから、この故事を伝えることはあり得ません(そこら変には華僑が昔から大勢います。)
このコトワザは、日本国内で作られたものとしか、考えられません。
「ミイラとりが、ミイラになる。」は、日本独自のコトワザです。
さて、ベトナム(コウチ)とタイ(シャム)の間には、今では、南は、カンボジア、北にはラオスがあります。
しかし、少し前までは、ベトナムの南部は、カンボジア領でした。従って、この文章の書かれた時代の、両国の間とは、ラオスのことです。
このラオスの中部には、ジャール平原(Plaine des Jarres)があります。この、平原には、石壷(石のJarジャール)が、沢山点在しています。これは、骨壺であったと思われ、石壷の近辺には骨が発見されてもいます。
こういうことと、ミイラのこととが、混ざり合って、
「交趾(コウチ)と暹羅(シャム)の間に、300里ばかりの砂原(砂漠)が有る。・・・」
との説が成立した、と考えるのが、妥当でしょう。
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