新説百物語巻之四 12、釜を質に置きし老人の事
2023.5
大宮(京都市下京区)の西に、作兵衛と言う者がいた。
六十歳余りであったが、妻や子もなく、裏やをかりて一人で住んでいた。
醒井通りの「吉もんじや」と言う質屋へ、毎日釜をひとつ持って行き、鳥目百文(ちょうもくひゃくもん)を借りた。
そのお金で菜大根を買いもとめ、それを町中にうり歩いた。
その利益で、生活に必要な物を買いととのえ、夜に入って吉文字屋(きちもんじや)へ釜を受け取りに行った。
それで飯などをたいて、また次の朝は釜を持って行った。
また、鳥目百文借りて、商売のもとでとした。
一二年ばかりそのように暮していた。
吉文字屋の亭主が、ある時、作兵衛に向かってこう言った。
「最早、この釜も一二年の間、質に取って、私の方は、多めに利益を頂いております。
毎日毎日、ご苦労の事でしょう。
それで、この釜をあなた様に差し上げます。
安心して、商売をなさって下さい。」と。
しかし、作兵衛は、
「お心づかいは、大変有り難いことでございます。
私の持っている物は、この釜ひとつだけでございます。
他に何の蓄えもございません。
それで、朝出かかるにも、戸も閉めず、夜に寝るにも心やすいことです。
釜が一つでも家の内にあれば、心配になります。
やはり、毎日毎日、御面倒ながら質物に御取り下さい。」と頼みこんだ。
それより又一年ばかり、質屋に通い続けたが、そのうちに亡くなったとのことである。
吉文字屋(きちもんじや)の亭主は、死んだとの知らせを聞いて、従業員に鳥目五百文をもたせて様子を見に行かせた。
すると、成程釜ひとつの外に、何のたくわえもなかった。
近所の同じ借屋の住人たちが打ちより世話をして、葬った、との事であった。
枕もとに、反古紙(ほごがみ)のはしに、辞世(じせい)とおぼしい発句(ほっく)があった。
どんな、人生を送った人なのであろうか。
何とも、風雅なひとであったか、と噂された。
身は終(つい)の 薪となりて 米はなし
と書かれていた。
名を無窮としたためていた。
普段は、物をかく事もなかったが、上手な字であった、との事である。
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