江戸の大食会
2023.4
いつのころか、備後の福山で、大食会と言うことをはじめた人たちがいた。
その社(なかま)の人は、皆早死にした。
しかし、ただひとり陶三秀(すえ さんしゅう)といふ医者がいたが、これは、大食の害をはやくさとって、その社(なかま)を辞(や)めて六十歳余りまで生きた。
私は、若い頃、三秀に会って、彼が甚だ小食なるを見た。
そして、その理由を問うたが、その社中(なかまたち)は、皆、変な病で死んだ。
彼自身は、減食して、不幸を免れたと言う。
その後、近村の平野村にまたこの事が流行って、人が多く変な病気をやんだ。
その社中(なかまうち)に清右衛門と言う若者がいた。
智力も人にすぐれ、無病であったが、ふと尿を漏らした。
それから、より頻繁になって、ついに、坐りながら、尿をもらしても、自覚がなかった。
そして、発狂して死んだ。
大食しても、すぐには害にはならないが、つもりつもって、不治の病となるのだ。
一日に五合の食(めし)は、吾邦(わがくに)の通制である。
その量で、飛脚をもつとめ、軍にもつとまるものである。そうであるから、人々は、心得るべき事である。
行軍の時には、1日に一升の食事、戦の日は二升の食事と言う事は、その時々の情勢によってであって、通常の時の食事量ではない。
「筆のすさび」菅茶山、安政三年 より
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