私説 平安京天皇正統記
平安京第一代天皇。50代桓武天皇
在位781~806 父 光仁天皇 別称 柏原天皇 病死 柏原陵
この天皇は、激動の奈良王朝のドロドロした中で誕生する。父の光仁天皇(白壁王)は皇位継承から全く無縁の人であった。親王でもない王の身分からの即位は珍しい。しかも母は、高野新笠という渡来人でありせいぜい官僚としての出世を望む程度であった。幼少時は名を山部王と言った。父の即位がすでに奇跡であった。当時天皇は、天武天皇系で繋いでいたが、ご存知の称徳天皇の弓削道鏡御宣託事件があった。女帝である称徳天皇に重用された道鏡が(閨でも重用された)天皇の地位を狙った事件だ。それを救ったのが和気清麻呂、筆者は清麻呂は万世一系の皇族と日本国にとっての大恩人だと思っている。このような大混乱の時にあった為、天武系ではなく天智天皇系に次期天皇を探す事となった。遂に老齢に達していた政治的意欲の無い60歳の光仁天皇に大命が下った。なお、皇后は井上内親王で、伊勢斎宮より復帰して皇后となった人だ。この人間模様が複雑な事件を招く。 井上内親王呪詛事件である
登場人物を整理する。①主役、井上(いがみ)内親王、②夫光仁天皇、③天皇の子(母は井上内親王)他部親王、④天皇の子(母は違う)山部王(桓武天皇)、⑤官僚藤原百川(式家)以上が主な人物である。まず、井上皇后は、聖武天皇の長女で5歳の時処女を強要される斎宮に任じられその後30歳で帰京した。なんと38歳で内親王を生み45歳で皇太子の他部親王を生んだ。当時では相当の高齢出産だが、困った事に長く男性関係を禁じられていた為、帰京後は性に目覚め盛んに男を求めたらしい。光仁天皇とも関係が良好であったが、天皇はすでに60歳を超えての即位であった為十分にお相手が出来なかった。多くの男性を物色する中、何と腹違いの息子の山部王と男女の関係を持ったという。父の光仁天皇が戯れに紹介したところ本当に閨に連れ込んだらしい。(諸説あります。)そんな中、皇后が天皇を呪詛したという訴えがもたらされる。藤原百川が調べたところ事実と認定され、皇后と皇太子の他部親王が庶民に落とされ同日に亡くなった。同時に亡くなったので自然死ではない、扱いに困った光仁天皇の苦肉の策だった。自殺か処刑か不明だが、結局二人は、平安初期「最高の怨霊」になって行くのである。
結果、朝廷は桓武天皇の即位と藤原百川始め「藤原式家」の牛耳るところとなった。無論二人の陰謀であろう。(井上皇后とも何もなかったのではないか。)因みに、井上皇后の娘酒人内親王を桓武天皇は后として迎えている。この親子はいずれも淫乱の癖があったようで、日本後記に以下のように記載されている。「容貌殊麗。柔質窈窕。(中略)(桓武天皇の)寵幸方盛。(中略)性倨傲にして、情操修まらず。天皇禁ぜずして、その欲する所に任す。婬行(あるいは媱行)いよいよ増して、自制する事能はず」淫行が自ら制御できないとは・・・・。しかし、古代の淫行は大らかだったのだ。
念のために父光仁天皇と息子桓武天皇の即位の経緯でも分かるように、奈良時代の複雑な状況が背景にあった。簡単に言うと、天武天皇系と天智天皇系の確執である。御存じ「壬申の乱」が事の始まりだ。中大兄皇子と大海人皇子と言えばわかりやすいか。兄である中大兄皇子と弟大海人皇子、同母同父の兄弟だ。(わざわざこう言わないと理解しにくい古代の姻戚関係)中大兄皇子(天智天皇)の次は大海人皇子(天武天皇)で決まっていたが、天智の息子大友皇子にどうしても皇位を渡したくなった。遠慮して大海人皇子が吉野に逃げる。しかし天智の死後、大友皇子と大海人皇子の叔父甥の戦争となる。古代の姻戚関係は誠に理解しがたい。そもそもは天武天皇の后の額田王が天智天皇とも関係があったと言われる。(恋敵対決)また天智の娘持統は叔父である天武の皇后である。(持統の逆襲)さらに大友皇子は恋敵である天武と額田王との間の子(十市皇女)と結婚している。(叔父甥対決)など、誠に複雑な争いであった。すでに理解不能だ。結果、天武天皇が即位しその後その系統で天皇を繋いだが、天智系との争いが延々と続く。その間の詳細はここでは書かないが、女帝の時代がしばらく続くのはこの辺の事情が原因だ。
加えて奈良仏教界の台頭が微妙な影響を及ぼして来たのだ。正当な皇統である(兄)天智系として即位した桓武天皇は、一切のしがらみから逃れたく思い遷都を思い立つ。平城の都は、これより「南都」と呼ばれる。今では南都銀行という奈良最大の銀行に名が残るのみだ。
しかし遷都先に決めた長岡京建都中に大事件が起こる。京都観光検定第1回 3級の第一問は、「平安京遷都の前の都はどこにあったか?」であった。4択なので間違いは少なかったが、平城京と答えた人が意外に多かった。
答えは当然、長岡京。さて、前回までで平城宮から遷都する理由が明らかになった。
加えて、陸路しかない平城宮に限界があった事から、桂川・宇治川・木津川などが合流し淀川に流れ込む分岐点である乙訓地方は、水運の便が良かった。また、地下水にも恵まれ現在サントリーウイスキー工場がある事でも明らかなように井戸水の宝庫だった。古代、都の最大の問題は下水処理だった。特に平城京は糞尿処理に困ったと言われる。その点、長岡京は水事情が良く、発掘の結果各家屋に井戸があり、都全体に下水処理のシステムが張り巡らされたと言われる。長く幻の都となっていたが、発掘が進みかなりの部分出来上がっていたと思われる。地元高校教師の中山修二氏の功績が大きい。長岡京というが、都の大部分は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に所在する。昔の乙訓郡である。昨年の選抜高校野球で公立の乙訓高校が近畿大会でベスト4となり初出場したのが話題になった。
しかし、大事件が起こる。工事責任者の側近中の側近である藤原種継が暗殺された。当然反対派の仕業と疑われた。しかも桓武天皇の弟で次期天皇の早良親王の関与が疑われた。捕らえられた早良親王は、乙訓寺で食を絶ち憤死する。結果、本邦最大級の怨霊となる。その怨霊を恐れて新都建設を断念せざるを得なくなる。怨霊が政治を動かしていた時代だ。冤罪で死んだ高貴な方の地位が高ければ高いほど強い怨霊となるのだ。後日、崇道天皇と追号するがそれでもおさまらず長く祟りをなした。遂に山城の地に都建設を託す。そこは四神相応の地であった。
筆者が思うのは桓武天皇の功績は、何と言っても子沢山だと思っている。多くの皇子・皇女に姓を与えて臣籍降下させた。ご存知「桓武平氏」の始まりだ。次の功績は、蝦夷の平定だ。坂上田村麿の活躍で東北の鎮圧は一時的にせよ出来たのだ。これも大きい、戦費が半端じゃなかったので都の経営に専念できた。三番目は渡来人の登用だ。これもその後の日本に大きく影響する。百済系の母を持つ桓武天皇は、技術力に優れた渡来人を多く使った。都を移したのはむしろ渡来人の多いこの地を選んだと言う説もある。当時の宮廷人の二割以上は渡来人だったようだ。韓国人朝鮮人と差別するのは如何にナンセンスか、ヤマト朝廷は彼らの祖先の貢献なしには語れないのである。仏教や織物、鋳造術など何でもかんでも取り入れる日本人の柔軟性は古代からあったのだ。
ただ、死後まだまだ平安京は安定せず、次期天皇(平城天皇)が大乱を仕掛ける。