⑪ 平安京 第11代 通算60代 醍醐天皇
在位 897年~930年
業績(事件) 延喜の治
父 宇多天皇
別称 小野天皇
死因 病死
御陵 後山科陵
宝算 46歳
この時代の登場人物を書きだすと、醍醐天皇の治世の大事件「昌泰の変」で廃された菅原道真は有名だが、その父菅原是善も5代の天皇に伝えた文章博士だった。(今回の京都検定に出題されたが、筆者は思い出せなかった。)また、天皇の后妃穏子は五条后と呼ばれその後も長く後継者選定に関わり朝廷の安定に努める。子の源高明は安和の変で廃される事となる。また、藤原基経は「阿衡の紛議」で有名。母の胤子は藤原勧修寺流の祖となる方だ。さらに父の宇多天皇は夏に雪景色が見たいと絹織物で山をおおいそれが「衣笠山」の由来となった。小野東風・紀貫之もこの時代の文化人だ。
世は、遣唐使廃止をきっかけに、国風文化の全盛を迎える時で三筆・三蹟の時代であり歌や歴史書も多く残る良い時代だった。醍醐天皇の父は、一旦臣籍降下した後に天皇になった方であったが、「寛平御遺誡」をもって詳しく厳しく王者の作法を子の醍醐天皇に示した。しかし「昌泰の変」で道真を左遷した。父宇多上皇の影響力を廃する暴挙に出たのだ。延喜の治として徳深い天皇という評価だが、その為に近年では学者による評価は微妙になっている。
結果として、第一皇子とその子を早くに亡くすなど、道真の怨霊に悩まされる。晩年はその対応に終始し政治どころではなかったと言う。一方、醍醐天皇の逸話として「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜に、諸国の民はいかに寒からんとて御衣を脱す」というものであるが、民の身を偲ばれ、旱魃の時には、一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉苑の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。このように天皇自身がリーダーシップを取って政治・文化の振興に努めたとして天皇の治世を絶賛されるが、一方菅原道真追放については「聖代の瑕」とするなど評価がまちまちなのだ。
この後京都の町を長く支配する怨霊の「道真天神信仰」を考えると、道真への遠慮もあり絶賛するのみという訳にはいかなかったのだろう。今でも京都では毎月21日を弘法の日、25日を天神の日として大きな市が出る。