アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

470 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第10代 宇多天皇

2018-12-25 09:14:44 | 日記

  平安京 第10代 通算59代 宇多天皇 

「宇多天皇」の画像検索結果

在位 887年~897

業績(事件) 寛平の治

父 光孝天皇 

別称 六条院・寛平法皇他

死因 病死

御陵 大山内陵

宝算 65歳

 

父の光孝天皇は陽成天皇から3代遡って仁明天皇の系統から即位している。天皇の皇子たちは皇位に就かない場合は、出家するか臣籍降下して源・平・藤・橘のいずれかの姓を賜る。当時藤原摂関家は、基経の時代だ。光孝天皇は、その基経を外祖父に持つ陽成天皇の弟である貞保親王に遠慮して自らの血統に皇位を望まない証に親王すべてを臣籍降下させていた。後の宇多天皇は光孝天皇の子でありながら、臣籍降下し源定省(さだみ)であった。しかし光孝天皇崩御の後、皮肉にも即位する事となった。理由は、基経と貞保親王の母高子とが不仲であった為だ。基経は兄妹の高子と陽成上皇の復権を警戒したのだろう。以前書いたが、陽成上皇は、「あれ(宇多天皇)はかつて私に仕えていた者(臣下)ではないか」と皮肉ったという。定省(宇多天皇)は、以前陽成天皇に仕えていたことがある為だ。

従ってこの親子2代の天皇は、基経に頭が上がらない。その証となる事件がいくつかあるが、「阿衡の紛議」がその典型である。当時重要官職につく場合、その任命を受けても三顧の礼をもって受ける慣例となっていた。御存じの三国志の諸葛孔明の故事に倣っている。宇多天皇即位後、引き続き摂政の就任を請うた基経は、2度断り3度目に受けるはずだったが、その際、橘広相が上程した文章に基経が噛みついた。折衝を「阿衡の任」と表現した。阿衡とは特に管掌の無い実体のない地位の事だと就任を断って来た。単なるイチャモンだが、これでは宇多天皇が困る。それを承知で自分の存在をアピールして来たのである。半年に及ぶ国政の停滞を経て前言を翻し橘広相は左遷され決着する。藤原摂関家の朝廷をしのぐ権勢を象徴する事件として後世に残る。

しかし、宇多天皇日記には、「濁った世の中はこんなものだ。(基経に謝ったのは)自分の意志ではない・・・。」と愚痴っている。なお、「昌泰の変」(藤原時平の讒言により菅原道真が左遷された。)に際し宇多上皇は、直ちに内裏に向かい決定を下した醍醐天皇を諫めようとするが時すでに遅く、道真の左遷が実行されていた。宇多上皇と菅原道真の余りにも深い関係が、醍醐天皇の嫉妬と、藤原家の政治的危機感を煽った。無念の道真は、

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

の和歌を残して大宰府に赴き大日本最大の怨霊になった。それは、次期天皇醍醐天皇以降の皇室の不幸を招く。

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