平城天皇の在位は、 誤 706年~809年
正 806年~809年
でした。
② 51代 平城天皇
在位 706年~809年
功績(事件) 薬子の変
父 桓武天皇
別称 奈良天皇
死因 病死
御陵 楊梅陵(奈良市)
奈良市の北部平城宮跡に数年前大極殿が再建された。朱色の堂々たる再建場所から徒歩数分に平城天皇陵がある。平城京近くにある平城天皇陵だと何の違和感もない、しかし、平安京に遷都した桓武天皇の子の御陵が捨てたはずの奈良にあるのは何故だろう。
平城天皇についてはまず、神皇正統記から目を通す。淡々と記述されている。桓武天皇の第一皇子である事、皇位4年で弟嵯峨天皇に譲位した事。引退後平城宮に住んで居たこと。寵愛した藤原薬子と兄の仲成の勧めで平城遷都を目論み失敗した事。その後弘法大師のもと出家隠棲したことなどを書いているだけだ。まだ詳しい検証がなされていなかったのか、処刑された者の怨霊を恐れたのか書きっぷりからは大事件があった事は窺えない。
しかし、そこに複雑なドラマがあった。平城天皇の東宮(皇太子)時代、藤原薬子(女性)は自分の娘を妃として差し出したが、何と母である自分が平城天皇と深い中となったのだ。当時病弱に苦しんでいた平城天皇の相談相手として接している内に一線を越えたようだ。薬子には夫がいて5人の子もなしている。女子の年齢は記録がないが、兄の仲成が平城天皇の10歳上である事、薬子はその妹である事からすると薬子の娘はまだ平城の夜のお相手は無理だったのではないか。つまり最初から薬子自身がその事を目論んでいたのではないかと筆者は推察する。また、おそらく天皇の病気は気鬱(メンタル疾患)であったと思われる。その証拠に、薬子に慰められた平城上皇は、譲位後病気が治り重祚(再び天皇になる事)を求めている。その結果大きな政変となったのだ。
譲位後、平城宮に戻った平城上皇は、自らの施策を詔した。平安京では嵯峨天皇の政治が行われていて「二所朝廷」と呼ばれていた。上皇が院宣を発し今上天皇が勅を発する事は幾らでも例があるが、そこに藤原氏の同族争いの様相が加わると複雑だ。北家の藤原冬継と式家の薬子・仲成との確執である。平城上皇の復権を狙って兵をあげる事で事変が勃発する。戦いは坂上田村麻呂(征夷大将軍)の活躍で短期で終了する。上皇の反乱はこの後、保元の乱までない事と仲成の処刑を最後にこれも保元の乱までない事でも大事件であった。
冒頭紹介した平城天皇陵は「楊梅陵」と呼ばれるが、近年調査の結果、平城上皇の墓としては無理があるとされている。どこに葬られたのだろうか?