⑨ 平安京 第9代 通算58代 光孝天皇
在位 884年~887年
業績(事件) 高齢の即位
父 仁明天皇
別称 小松天皇
死因 病死
御陵 後田邑陵
宝算 58歳
光孝天皇については、神皇正統記の記載がすべてを物語る。太古の昔、武烈天皇から継体天皇への皇位継承を例にして、「徳の無い天皇の御代は正され徳ある正当な天皇が即位する。」と、さらに「これが神国日本の姿だ。」と長々と書いている。言うまでもなく徳の無いのは、先代陽成天皇で、徳ある天皇は当代光孝天皇という事が言いたいのだ。また、この時代藤原基経が初の関白の地位について、この後基経の子孫だけが摂政関白につくという事で日本の国が定まったとしている。(勿論南北朝時代までの話だ。)
つまり天照大御神の子孫である天皇家と、天児屋命の子孫である藤原家が手を組んでいく事になったのだ。事実藤原家以外に、摂政関白にはついていない。またこの後も、藤原北家は、安和の変など、政敵を陰謀によって早々に叩いているのだ。
さて、陽成天皇の「御乱心」で次期天皇選びとなった訳だが、3代さかのぼり仁明天皇の第3皇子の光孝天皇に決まる。すでに55歳の老年であった。選ばれたその最大の理由は皇位への意欲がなかった為である。候補者の皇子の中で、一番の人格者で質素で徳ある人物と書いてあるが、真の理由は無欲さである。
その証拠に、光孝天皇は自らの皇位は一代限りとし皇子全員を臣籍降下させている。(結果的には実子の宇多天皇が継いでいる)しかし即位が寿命を縮めたのか3年で崩御する。なお御室仁和寺は、光孝天皇の発願にて、宇多天皇の時代に創建した寺である。因みに年号を寺名にした例としては、延暦寺以外では江戸時代の上野寛永寺がある。
さらに御室とは、子の宇多天皇が出家後住まいとしたことから「御室」と呼ばれる。余計だが、「オムロン」(立石電機)の社名はここから来ている。創業家立石家の地元であった為だ。なお、皇女・皇子は少なくとも40人以上残していて、絶倫の天皇でもある。しかし宇多天皇以外ほぼ全員臣籍降下させている。因みに皇后の班子女王との間には最も多い8人の子をもうけていて彼女も68歳の天寿を全うしている。この時代、健康は最大の美徳である。