ブログを始めてから800回を迎えた。ごく一部の読者に感謝する。
今まで、このブログで本を2冊刊行した。①「令和に読む 平安京の天皇たち」と、②「新京都100寺巡礼」である。
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また、③「俺にも言わせろ」シリーズは、世相に対抗して極論を展開した。ほとんどの読者は共感できないはずだ。不倫や問題発言を独自に切って来た。世論の大半が一致した意見の時には、あえて反対意見を展開した。そういう意味で、今回の森発言報道は、何かいかがわしさを感じる。
元より男女差別はあってはならない。その前提で書くと、例えば小池百合子が「男性が多いと発言が長くなり、話がまとまらない。」と、発言したら問題視されただろうか。現在の風潮に従うなら、「男性はだらしない。」は問題視されず、「女性は嘘つきだ。」は、問題となる。
森会長の辞任は避けがたく仕方ない。しかし、ある意味、言葉狩りではないか。ジェンダーフリーを進める中で極端な言葉狩りは、魔女狩りのように先鋭化し気に食わない権力者を追い詰める手段になる。発言の切り取りが横行し、心ある人間は本音を隠す。
本当に進めなければならないのは、森氏のような人を諫めて地位も権力もある人間を巻き込んで行かねばならないことだ。森氏を時代の異物として排除するのはむしろ差別排除の道を遠ざける。今回の件はむしろ森氏周辺が何も言えなかったことだ。言えない周辺と、言わせない本人のどちらも問題だ。十分反省してほしい。
このように、不倫問題や問題発言に対する国民こぞっての批判はむしろ疑って見るべきだ。真に改革を望むなら、理解できない人を排除するのではなく聞く耳も持たねばならない。それも押さえるならば、「言論の自由」もなくなる。
ゲイやレズに対する嫌悪感を、(無理解がゆえに)持つ人には批判が集まる。TATOOへの嫌悪感はどう考える?人の自由だとしても、「入れ墨・TATOOお断り」の看板は多く見かける。「おかまお断り」と、書けば大問題だ。嫌悪感のあるなしは人の自由なのだか、世の中には持ってはならない嫌悪感もあるのだ。
森発言に嫌悪感を持たない側の自由がない事に、違和感を感じるのは筆者だけか。(もちろん筆者に嫌悪感がないわけではない。)昨今の常識の変化を理解できない者への対応をどうするか。定年退職などで、世間での現役を退いた人間への教育をするのか。絶滅を待つのか?
森氏は80歳を超えているのだ。再教育が効くとも思えない。
当然、筆者の頭も
古い。汚い。臭い。醜い。温い。固い。
従って、嫌われる。疎まれる。避けられる。打たれる。殴られる。蹴られる。舐められる。蔑まれる。
そして、出される。(家から、会社から、組織から、仲間から、家族から、日本から。)
また、④ 「生きてるだけで丸儲け」シリーズは、大阪の芸人を振り返って来た。エンタツ・あちゃこから、やすし・きよしまで、大阪のお笑いを担ってきた芸人を書いた。現在、「おちょやん」で浪花千恵子が話題となっている。近々、新シリーズで松竹新喜劇や吉本新喜劇を取り上げて書きたいと思っている。
コロナ禍で時間と暇が出来た。(そうでなくとも暇はある。)僅かな読者の為?引き続きご期待を・・・・。