アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

俺にも言わせろ! 憲法記念日

2021-05-03 09:28:21 | 日記

昨今、祭日・祝日の意味があまり言われなくなった。加えてハッピーマンデー制度の為に祝日が簡単に移動する。祝祭日が日曜と重なったり、海の日や山の日、体育の日などレジャー促進を意図した祝日は月曜日にした。一方、天皇誕生日や憲法記念日など日を動かせない祝日はその意味をちゃんと学校で教える必要がある。

正にその日に意味があるのだ。憲法を施行した日を記念日にしたのは、その意味を国民全員で考える日としたのである。昨今やっと憲法改正を議論できる情勢になって来た。国民調査でも改正賛成の比率が徐々に高まって来ている。護憲を第一にしていた社民党は党勢を落とし今や福島何某のみとなっている。

戦争を仕掛ける意図は誰にもない。しかし戦争(侵略)を仕掛けられても何も出来ない憲法では子孫を守れないことも分かって来た。それにつけこんで中国の急速な台頭は無視できない。中国人の国内の土地取得を制限する法整備やインターネット上の個人情報保護の動きなど、手を打つものの限定的だ。

自衛隊を憲法違反状態では、中国や北朝鮮の挑発に何も出来ない。後世に禍根を残さないように、国際社会の常識に鑑み議論を進めるべきである。マスコミや学者たちに中国の「たらしこみ政策」にやられてしまった連中が増えている中、公明党など国政政党にも魔の手は及んでいる。

パックスアメリカンを遠くに見送り、清国滅亡以来150年振りに、世界の宗主国に戻る中国をただ黙認するか。元寇や明治維新そして太平洋戦争直後以来の日本の固有の領土を失う危機に対して正論を封じるな。韓国と小さなもめ事に関わっている場合ではなく、人権を第一に考える勢力を集結するくらいの気概が必要だ。

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837 あちゃこの京都日誌 戦う天皇たち 光格天皇  ①

2021-05-03 09:06:43 | 日記

第4章 光格天皇

①             傍系からの天皇  「不測の天運」による即位

 写真  光格天皇 衣奈塚(上京区 清荒神)

 

 江戸時代の天皇は、前章の108代後水尾天皇以降、幕末の121代孝明天皇まで、皆さんは何人の天皇をご存知だろうか。この間、皇室は「禁中並公家諸法度」に縛られて幕府の言うがままに、細々と血統を継いで来た。従って、庶民とは関係なく御所奥深くにいて、政治的には全く無意味であったというのが定説だ。しかし、江戸時代の天皇(皇室)の大きな課題は、応仁の乱から戦国時代にかけて多くを失った宮中における「朝議」の再興であった。大嘗祭という天皇即位時の新天皇の神秘性を獲得する為に欠かせない大変重要な儀式でさえ、実に1466年以来200年以上途絶えていた。なんとか貞享4年(1687年)になって東山天皇により復活した。しかし、これは十分なものではなく古式に則った本格的なものには程遠かった。それでも、葵祭などの各寺社の例祭などはこの時期に多くが復活している。しかし、幕府の財政的援助がなければできない事であり、そこに「武士との戦い」があったのである。

 そこで「武士と戦った天皇たち」で最後に紹介するのは、その戦いで勝利した天皇である。

その119代光格天皇の即位も他の戦う天皇同様普通ではなかった。江戸時代も後期に入る宝暦12年(1762年)116代桃園天皇が崩御した時、皇太子の英仁親王が幼少であった為、姉の緋宮(117代後桜町天皇)が江戸時代二人目の女帝としてつないだ。英仁親王の成長を待って、明和8年(1771年)118代後桃園天皇が即位する。しかし、後桃園も在位8年22歳で早世する。ここで、長く繋いできた皇統が断絶の危機をむかえる。皇室は、予めこのような事態を想定して新たに親王宮家を創設していた。それは113代東山天皇の御代の時、「正徳の治」で有名な政治家新井白石の進言で、新たに閑院宮家を創設していた。初代は閑院宮直仁で東山天皇の直系男子であり十分に皇統をつなぐ資格がある。その2代目当主典仁(すけひと)親王の子が候補にあがった。祐宮(さちのみや)という119代光格天皇の登場である。安永8年(1779年)天皇9歳の時であった。典仁親王の6番目の男子であった祐宮は、兄弟のほとんどがそうであるように、すでに門跡寺院である聖護院に入ることが決まっていた。まさに「不測の天運」による登極であった。

父君 閑院宮 典仁親王

 この光格天皇にとって幸いだったのは、まず後桜町上皇という存在である。再従姉弟という関係になるが、女性であり所謂「院政(治天の君)」というものではなかった。また、当時の関白九条尚実は非常に高齢で出処も適わないほどであった。また、その関白を継いだのが光格天皇にとって実の叔父(父典仁親王の実の弟)の鷹司輔平であった。そのような事から、天皇は即位後若くして周囲に遠慮することなく、自ら親政を行う環境が整っていた。

しかしこの当時、天明の大飢饉の最中でコメの急騰による社会不安の真っただ中であった為、即位後すぐ数々の事件が起こる。そのような状況でさっそうと青年天皇が登場するのである。

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