逆順でたどる平安京の天皇たち
115代 桜町天皇 聖徳太子の再来?
在位 |
1735年~1747年 12年間 譲位後 院政へ |
在位中元号 |
享保・元文・寛保・延享 |
父 |
中御門天皇 |
陵墓 |
泉涌寺 月輪陵 |
朝廷 |
京都御所 |
桜町天皇は、父中御門天皇の譲位により即位。時代は、徳川吉宗の時代で江戸幕府300年のちょうど半ばを過ぎた幕府安定期だった。その幕府の援助もあり、朝儀の復活に熱心な天皇だった。自らの政治力(朝廷内の)を強化するために、皇子桜町天皇に譲位し院政を始める。しかし、31歳の若さで3年後に崩御する。脚気によるとされるが、この流行した白米摂取によりビタミンB1不足で発病したと思われる。脚気は最終的に心不全に陥る。玄米食ならもっと長生きできただろうに、深窓の育ちにはよくある病気だった。
現在は、栄養学の進展で例は少ないが、いまだに健康診断で膝を小さなハンマーで叩かれるのは、脚気の診断だ。
聖徳太子の再来と言われるくらいで、学問的業績は高く評価されている。歴史家で公家の柳原紀光は、「延喜・天暦の治以来の聖代」と評した。平安中期、醍醐天皇・村上天皇の親政の時代に匹敵すると評価したのだ。徳川幕府盤石の時代で、しかも31歳で亡くなった天皇には過分の言い方と筆者は違和感を覚える。
ただ、歌道は古今伝授を受けるほか、多くの著作(御製)や書(宸筆)を残しているのは事実だ。
誕生日が正月元旦であることなど外形的に聖徳太子に似た点が多く、太子の再来とすることで、朝廷の権威を高めたい尊王への期待が高まりつつあった証拠だと思う。徳川政権盤石とは言え、長く天皇親政から遠ざかり朝廷への権力復帰を期待する機運が存在した証拠だと筆者は思わざるを得ない。京都と江戸に温度差が生じ始めた証拠だ。
次は父中御門天皇。
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