54 平安京 54代 通算 103 代 後土御門天皇
在位 1464年~1500年
業績(事件) 享楽から悲惨への激変
父 後花園天皇
別称
死因 病死
御陵 深草北御陵
宝算 58歳
室町中期以降の天皇の在位に注意して欲しい。在位期間が長い。天皇は早々に上皇になり院政のもとで、子の新天皇の成長を見守る。しばらくそのパターンが続くが、即位には飛んでもなく金がかかる。幕府も弱体化したこの頃から即位式も出来ない天皇も出て来る。従ってこの天皇以降、結果的に在位期間が長くなる。また形式上天皇不在の時期も出て来るのだ。
さて、後土御門天皇だが、まさに応仁の乱のさなかに在位していた天皇だ。前半生は、足利将軍家との関係も良い。天皇―義政―日野富子の蜜月ラインが、記録に残っている。戦乱の前半は、京都御所から避難し義政の室町御所に長く一緒に過ごしていた。ただ、その間義政とはしばしば酒宴を共にして、避難生活とは程遠い楽しそうな日々であった事が記録に残っている。
しかし、この天皇は飛んでもない事件を起こしている。室町御所で、いわば居候の身でありながら、日野富子付きの女房(花山院兼子)と密通をし皇女を生ませている。通常、館の主人の女官・女房との密通は、厳罰に処されるのが通例だが、身分の違いが甚だしく不問にされた。そもそも天皇を処罰する「法」などあるのか?生殖能力を最も望まれるお立場の方は、どこにいても「お種」をばらまくのである。
そして、晩年は悲惨である。晩年というより「崩御後」、である。享年58歳は当時では平均的な年齢で不自然なところはないが、何と、ご遺体がそのまま40日間放置されている。理由は、葬儀の費用がない事である。さらに、次期天皇の践祚式もその後22年間出来なかったのだ。
応仁の乱前半頃と、その後の急激な荒廃ぶりがうかがえる。
当時、天皇の崩御はタブーで、生前譲位が慣例であった(譲位した後に亡くなった事にする為、すぐには崩御を発表しないことも多かった。)が、このケースは異常事態だ。
「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉(霊柩黒戸にあること四十余日、玉体腐損し、虫湧出し、古来未曾有)」
と、ある古文書に残っている。ただ玉体の損傷状況を記録にするのは不自然であろう。水銀による防腐処置技術はあったが、使われることはなかった。因みに、現在天皇は土葬が原則だが、仏教信仰が深い天皇については火葬の時代もあったようだ。明治以降国家神道を進めるに当たり天皇は土葬とされた。
このように、前半の幸せと死後の御不幸が明暗はっきりした天皇であり、応仁の乱が皇室や天皇に如何に大きな影響を及ぼしたか、これ以降よく分かる。未だに、京都市民が「先の大戦」の事は、「応仁の乱」の事だと言うのは冗談でもない。
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