㉛ 晩節と有終
晩節は汚すもの、有終は美を飾るものだ。
まず、有終は晩年とは限らないので飾るしかない。定年のある通常のサラリーマンは、それに向かって自分の勤め人として仕上げにかかる。汚す晩節がないのである。アスリートならば体力と技術の集大成を最後の闘いに求める。そして自ら引退を決める。ピークを過ぎても一定の成績を残せば長い現役を続たことに有終の美がある。
死後、汚す御仁も。
昨今、晩節を汚す御仁が多い。時代について行けない老政治家や芸能界では自らの事務所のタレント達を私物化したり、また、企業経営の世界では後継者を決められず引き際を見失った老経営者など。
そもそも晩節とはいつの事か。年齢の定義はないが、死ぬ(引退する)間際の事であろう。と、すれば長壽社会においては晩節の年齢は上がる一方だ。昔の経営者は、後進に道をゆずる頃には体力的にも限界であり残りの寿命も短い。晩節を汚す間もなく死ぬのである。しかし、現在はどうか。一般社員が65歳か70歳までで退職する一方、経営トップには年齢制限はない。如何に優秀な経営者でも、年齢とともに知力、体力が落ちて時代の感性に遅れて行くのである。ここでも劇的な長寿社会の影響がある。死ぬ間際まで、経営者なのだ。
歴史には、「豊臣秀吉」に見られるように極端に晩節を汚す英雄が出現する。筆者は、飛びぬけた出世をした人は成り上がり者の本性を表わすのだと見る。本質的な貧乏性が、過度な権力と金力を得て判断を狂わす。世には分相応と言う言葉があるが、生まれながらの武家育ちの「徳川家康」とは晩節の過ごし方には大きな違いがある。限りなく上昇志向を続けるのか、どこかに自らの挑戦に天井を設定するのかは誠に難しい。
さて、令和の時代に昭和の経営者が跋扈する老害企業がまだいくつも見られる。輝かしい成功体験に裏付けられた自信は誰にも批判できない。トップ自ら引退年齢に制限を設ける見識を持つのは本当に難しいのか。
晩節の美を飾る経営者は稲盛氏など僅かな例しかない。ここから、京都の老経営者の晩節に注目する。
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