アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

後水尾天皇とゆかりの寺

2017-03-21 09:52:47 | 日記
① 後水尾天皇 泉涌寺 塔頭戒光寺
・歴史上一番興味深い天皇
何が興味深いか。まず生きた時代が、1596年~1680年(在位は1611年~1629年)と、まさに戦国の混乱が収束し徳川幕府政治の確立の時期に重なる。85歳まで生きたこの天皇は、なんと昭和天皇がその年齢を越えるまで史上最高齢であった。昭和天皇がその年齢を越えた当時の会見で、記者に、感想を問われて、「時代が全く違う。」とお答えになった。まさにその通り。平均寿命が大きく伸びたのは近年の事である。
 次に、その生殖能力であり、世界の皇帝や将軍にその例は多いが、この方もなかなかの絶倫の類である。名のある妃や局に産ませ歴史に名を残した親王・内親王だけで34名ほどが数えられる。おそらく、名も残らない女性に産ませた、ただのご落胤となればその数倍はあると思われる。なお、将軍徳川家斉は53人の子供が記録されているが、皇室の歴史には、嵯峨天皇や桓武天皇そして、後醍醐天皇などと同様に、特筆されるものであろう。                                                      とにかく、子作りでもやっていないとストレスがたまり、やっていられない時代であったのだ。この天皇にとっては気に入らないことだらけだったようだ。
 まず、皇位継承の経緯から気に入らない。父の後陽成天皇は、次男で兄の八条の宮智仁親王の立太子を考えていた。しかし、この方は、一時秀吉が関白の地位を望み、自らの血統に高貴な血を入れたいため、その養子となっていたことから、家康が難色を示した。本来は長男の良仁親王が継ぐべきところ、なぜか三男の政仁親王(後水之尾天皇)に決まった。父君(後陽成)は、どちらの親王とも不仲であったようで、幕府の意向が強く働らいたようである。なお、この親子の確執は生涯にわたり続く。因みに、追号の後水尾の水尾とは、清和天皇のことである。天皇親政の良き時代にあこがれて自ら追号を選んだ訳だが、清和天皇の子が陽成天皇だったから、つまり、後水尾は、自分の父に清和天皇の子の追号を送っているのだ。(諡号親子逆転という)しかも、陽成天皇とは、その在位中の乱行が目に余ると言われた問題ありの天皇なのである。天皇の追号は、死後贈られるのが通例だがまれに自ら希望する場合もある。(後醍醐天皇も醍醐天皇に憧れ生前から追号を決めていた。)自らの追号を憧れの天皇に因み、父にはおぞましい追号を贈る。これはなんだろう?父への執念は死ぬまで続いたのであった。
 そして武家政権に抵抗した最後の天皇なのだ。後年、維新の前に孝明天皇が、倒幕に担がれるが、自らの強い意志で幕府に対抗した天皇は、この方が最後かも知れない。
徳川和子の入内。紫衣事件。春日の局との確執。そして禁中並びに公家諸法度の発布と耐え難い状況のなか、突如自ら幕府に告げず退位した。(紫衣事件がきっかけらしい)娘である女帝の明正天皇の誕生だ。その後4代に亘り自分の親王・内親王が天皇をする。つまり上皇として存在を発揮し続けるのだ。その間、数々の文化的遺産を京都に残した。そして何より子供を多く残したのであった。

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