① 異例の即位
このシリーズは、一つの仮説をもとに書いている。後世に名を残す天皇は「一定のコンプレックスを持っている。」という事だ。誕生や即位の経緯が単純ではなく、何らかの複雑な事情が重なっている場合が多い。今回の主役尊成親王(以下後鳥羽天皇)も、即位する可能性はなかった。父である高倉天皇の第一子安徳天皇は、申すまでもなく平清盛の娘徳子の皇子である。後鳥羽天皇は「平家に非ずんば人に非ず」という時代の中で生まれた。平家との血縁の無い皇子に即位の可能性はなかった。しかし、歴史の急展開がその運命を変える。
安徳天皇
寿永2年(1183年)7月25日、木曽義仲に追われた平家一族は、安徳天皇を奉じて西国に落ちる。早くも8月20日には、後鳥羽天皇が即位するのだ。木曽義仲は※以仁王の遺児北陸宮を新天皇に推したが、後白河上皇の意思で決まった。歴史上異例なのが、まず3種の神器がないこと、そして前天皇が退位していない事である。禅譲でも譲位でもない異例の即位である。何より問題なのは、3種の神器がない事で、現代ならば実質的に天皇であれば良いとも言えるが、古代には神器にこそ日本国統治の霊力が宿っていると考える時代だったのだ。天変地異や戦乱は、その霊力を引き継いだ天皇の「徳の無さ」だとされたのだ。後鳥羽天皇が、どうしても強い君主意識を発揮し朝廷主導の「あるべき世の中」にせねばならないという源泉がここにある。
後白河上皇
頼朝
ただし、4歳の後鳥羽天皇がその様なコンプレックスに悩むのはまだ先のことである。治天の君は、祖父の後白河上皇であり、武家社会では源頼朝が君臨するのだ。その後、建久3年(1192年)後白河上皇が崩御し、建久10年(1199年)頼朝横死する。二人の希代の英雄であり策士であったライバルが相次いで亡くなり、前年には、子の土御門天皇に譲位し上皇となり、治天の君の地位も確立し、いよいよ後鳥羽の歴史が始まる。
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