逆順でたどる平安京の天皇たち
102代 後花園天皇 中興の英主
父 |
伏見宮貞成親王 母 庭田幸子 |
l 在位中元号 |
l 正長・永享・嘉吉・文安・宝徳・享徳・康生・長禄・寛正 |
l 生年・崩御 |
l 1419年7日10日~1471年1月18日 |
l 在位 |
l 1428年9月7日 ~1464年8月21日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門高倉殿 土御門殿 土御門東洞院 |
|
記載なし |
l 皇子・皇女 |
l 計4名 |
l 先代 |
l 称光天皇 |
l 次代 |
l 後土御門天皇 |
l 陵墓 |
l 後山國陵 |
南北朝時代は、100代後小松天皇の時に、北朝(持明院統)に統合することで解決されたが、その後、101代称光天皇から102代後花園天皇までは、旧南朝方(大覚寺統)が、まだその皇位奪還を目論んでいた時代だ。
しかしその後、南朝方の動きが歴史上なくなる。後深草天皇から始まる持明院統の正嫡に戻ったこの天皇は、中興の英主と称えられている。
先代称光天皇からは、八親等離れた親王の登場だったが、この血統が現在の今上陛下につながる。
中興の英主に称えられるその理由は、南北朝の騒乱の中で混乱を極めた三種の神器が、この時も、嘉吉3年に禁闕の変で南朝方に奪われる。しかし2年後南朝方から奪い返し、ここに完全に三種の神器が揃いその後現在の今上陛下まで伝えられている。
さらに、この時期から世情怪しく、土一揆や〇〇の変、〇〇の乱などが頻発する。それに対して治罰綸旨をしばしば発する。幕府に鎮圧するように命じる天皇の命令書のようなもので、結果天皇の権威高揚につながった。
そして、晩年自らの不徳(帝王不徳の責)を理由に出家をした。世間は、幕府(足利義政)の無責任さに対してこの天皇を称えたという。
しかしその後も、奢侈に明け暮れる義政に対して漢詩をもって諷刺したエピソードが残る。文化的な功績も多く残し薨去後、京都京北の常照皇寺(山國陵)に葬られる。
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