64 平安京 64代 通算 113 代 東山天皇
在位 1687年~1709年
業績(事件) 赤穂浪士の時代
父 霊元天皇
別称 五宮
死因 病死(疱瘡)
御陵 月輪陵
宝算 35歳
東山天皇は元禄時代の全期間を天皇でおられた。幕府の将軍は、犬公方徳川綱吉だ。忠臣蔵との関係をまず書きたい。『時は元禄14年、赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、勅使・院使の御接待係を拝命し、その作法を吉良上野介に教わった。田舎侍扱いを受けた内匠頭は、遂に江戸城松の廊下にて「刃傷」に及び切腹、しかし吉良は無罪となった。』その勅使とは、東山天皇のお使い(名代)の事だ。 さぞかし天皇はお怒りの事と思うが、京で知らせを受けた天皇、「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と、言った。喜ばしいと言ったのだ。御所の整備などに尽力した浅野家に対しては好意を持っていた。一方、朝廷にも様々な裏工作を仕掛ける上野介を嫌っていた。
この事で、筆者は一気にこの天皇を好きになる。さらに、勅使が京都御所に戻った時、内匠頭切腹に対し何も幕府に取りなさなかった事(浅野家を見殺しにした)で、この勅使を宮中参内禁止にしている。筆者は、これで一層好きになる。討ち入り後の感想は伝わっていないが、さぞかしお悦びの事と推察する。
ただ、天皇の在任中すべてにわたり父霊元上皇の院政の時代であるので、自らの手腕はなかなか発揮出来なかった。それでも子の中御門天皇に譲位し院政を始めるが、半年で崩御した。無念であったろうと思う。
また、綱吉も家宣も朝廷への敬愛は篤く「朝幕関係」は概ね良好であった。それでも、当時幕府の人事権であった武家伝奏(朝廷内の幕府連絡係)の人事を自ら行うなど朝廷の復権に努めた。江戸幕府全盛期にも気骨ある天皇がいたのだ。
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