65 平安京 65代 通算 114 代 中御門天皇
在位 1709年~1735年
業績(事件) 幕府との蜜月時代
父 東山天皇
別称 長宮
死因 病死(インフルエンザ)
御陵 月輪陵
宝算 37歳
中御門天皇の生まれは、元禄14年である。そう、浅野内匠頭切腹の年だ。幼少期ながら忠臣蔵の話は、この天皇にも伝わったはずだ。内匠頭が接待役となった勅使・院使の天皇とは、父東山天皇・祖父霊元上皇の事である。将軍は、吉宣・家継・吉宗の時代で、朝幕間の関係は良好の時代だ。父の東山の院政と、祖父霊元の院政の間が長く、ご自身の功績は少ないが、重要な施策が実現している。
また世は、「正徳の治」の時代である。新井白石の登場だ。忠臣蔵では、助命論を退け切腹を進言したが、皇位継承の危機をあらかじめ感じた白石は、新たに宮家の創設を提言した。世襲親王家の閑院宮家の誕生だ。東山天皇の皇子の一人が初代閑院宮となる。後年、光格天皇即位時に皇統断絶の危機を救う事になる。強調したいのは、現在に新井白石はいない。皇統の危機なのにだ。眞子妃殿下の結婚問題にかまってられる状況ではない。勿論、眞子様にはお幸せになって欲しい。週刊誌ネタに振り回される場合ではないと言いたい。側室を許さない時代であれば新宮家の創設も選択肢の一つだ。
因みに、在位中、霊元上皇の皇女が、将軍家継に降嫁する話が出来ていた。公武合体の実現だ。天皇の皇女が江戸城に入るのは初めての事であった。結局、家継が早世した為、実現せず幕末の皇女和宮の降嫁を待たなければならない。公武合体が切実な課題となっていたのだ。
中御門天皇も文化的に優秀な方で、御製を多く残しながらも若くして崩御した。長生きすれば多くの文化的・皇室行事的な功績を残すはずであった。また、「象」を見た初めての天皇で、ベトナムからの使者のお土産で、天皇に拝謁する為には、無位無官では実現できないと象に「従四位」の位を与えている。面白い逸話だ。当然直答は許されない簾内での対面であった。その時の御製、「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」
天皇の感動が伝わる和歌だ。その薨去はとても惜しまれての事と記録されている。
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