逆順でたどる平安京の天皇たち
86代 後堀河天皇
在位 |
1221年~1232年 |
生没 |
1212年~1234年 |
在位中年号 |
承久・貞応・元仁・嘉禄・安貞・寛喜・貞永・ |
先代・次代 |
仲恭天皇→当代→四条天皇 |
御陵 |
観音寺陵 |
父・母 |
守貞親王・持明院棟子 |
中宮 |
九条・近衛良子 |
承久の変の事件処理の真っただ中の即位であった。当代の天皇始め3人の上皇が揃って「謀反」を起こしたのだから異常な事態であった。
ここでも天皇を空位には出来ないのが日本らしい。後白河上皇の皇子である高倉天皇のそのまた皇子の中で、皇位につけなかった守貞親王が唯一存在していた。結果、その子後堀河天皇の登場だ。
母は、持明院棟子。その母は、頼朝の命を救った池禅尼(いずれ詳しく書く)の娘だ。つまり幕府の恩人の子孫なのだ。父も頼朝の姻戚関係者だ。多少無理はあるが、血統の中でも比較的優位な理由があった。幕府執権は、得宗家北条泰時で最も安定した時代だ。
残念ながらこの天皇も後世に継がれるような功績はない。すぐ四条天皇に譲位するが、院政も2年足らず、窮屈な一生を送ったに違いない。諡号を後堀河、父には後高倉の追号を贈る。
神皇正統記には、天皇にならずにその子が即位した事で、追号を贈られた例を列挙している。
文武天皇の父草壁に長岡天皇。
淳仁天皇(淡路廃帝)の父(舎人親王)に儘敬天皇。
光仁帝の父には田原天皇。
また、早良親王には怨霊を恐れてご自身に崇道天皇を贈っている。いずれも事情があり歴代天皇には入らない。後堀川天皇については残念ながら神皇正統記にも功績は書かれていない。
次回から、いよいよ承久の変を詳しく書いていく。
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